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2024-11-06

【しゅりんぷ池田のカード春秋】プロ野球90周年カード(第5回)名将を振り返る~①鶴岡一人

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プロ野球90周年カード」のサブセット「名将」では9名の有名な監督を取り上げていますが、令和の現在となっては、その業績をあまり知らないプロ野球ファンも増えていると思いますので、改めてその業績を紹介したいと思います。その第1回は鶴岡一人。

No.136 鶴岡一人(南海)
No.136 鶴岡一人(南海)

46年から68年まで実に23年に渡って南海の監督を務め、通算1773勝は歴代1位の記録ですが、驚くべきことは通算勝率の.609です。300試合以上で指揮を執った監督の中では唯一の6割超えだそうです。今季のセ・リーグを制した巨人の勝率が.566だったように勝率6割を切る優勝も珍しくない中で、23年間の通算勝率の6割超えは本当に驚異的な数字と言っていいでしょう。

鶴岡は法大を卒業した39年に南海入り。同年23歳ながらいきなり主将に就任し、ホームラン王に輝きますが、プロで過ごしたのはこの1年のみで以降は兵役に付き、兼任監督として南海(同年はグレートリングを名乗る)に復帰した46年は30歳を迎える年でした。20代の6年間を失っていなかったら、鶴岡はどんな成績を残していたでしょうか。

同年、鶴岡は南海を初優勝に導き、48年にも再び優勝。セ・パが分立して以降も51~53、55年にリーグ優勝しますが、日本シリーズでは水原茂監督率いる巨人の牙城を崩せないでいました。水原・巨人との5度目の対戦となった59年の日本シリーズはエース・杉浦忠が4連投4連勝でついに日本一を達成し、「涙の御堂筋パレード」が実現しました。

なお、鶴岡の登録名46~58年は山本一人だったのですが、これは結婚した際に妻の姓を名乗り、妻と死別して以降旧姓の鶴岡に復したためでした。医療レベルが低かった昭和30~40年代までは早くに亡くなる方が多かったのです。同監督の自伝『御堂筋の凱歌 栄光と血涙のプロ野球史』(ベースボール・マガジン社、1983年)(※)によると開腹手術を行ったものの、ガンが広がっていて手の施しようがなく、そのまま閉じたと記されていました。平成生まれ以降の方には信じがたい処置かと思いますが、昭和40年生まれのわたしは、そんなケースがよくあったということを記憶しています。

(※)40年前の書籍ではありますが、図書館には収蔵されていることが多いので、ご興味を持たれた方はぜひ、ご一読ください。


当コラムは、これまで「週刊ベースボール」の「Curutural Review」のページに掲載されていたカードのコラムを転載していたのですが、2001年春から続いていたこの連載が先日の4月1日号をもって終了しました。今後、当コラム「カード春秋」(※)はBBMカードサイトのオリジナルコラムとして続けていこうと考えておりますので、よろしくお願い致します。

※「カード春秋」というタイトルは、わたしの出身校・香川県立高松高校(旧制・高松中)の大先輩にして、文藝春秋社の創設者である菊池寛先生へのオマージュなのです。

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