スポーツにおいて、人間の歯はどのような役割を担っているのでしょうか。『コーチング・クリニック』2017年12月号では、スポーツ歯学の第一人者である東京歯科大学の石上惠一先生に、スポーツにおける歯の役割やその重要性について、広くお話しいただきました。ここではその内容の一部をご紹介します。
「火事場の馬鹿力」という言葉の状況を想像してみてください。信じられないほどの力を発揮するとき、人はぐっと歯を噛みしめるものです。もうこれ以上は力を出せないと自分で感じるレベルを「心理的限界」といいますが、その状態で筋肉に電気刺激を与えると、さらに30%ほど力が発揮されます。これが「生理的限界」で、人間の身体には自分で限界だと思っている以上の力を発揮する機構が備わっており、その残された力を発揮する1つとして、歯の咬合の関与が考えられるのです。
私が最初に歯の咬合とスポーツの関係性に注目するようになったきっかけは、身体バランスの研究でした。身体バランスはスポーツにおいて最も重要な要素の1つで、「身体バランスの悪い選手は決して一定のレベル以上は成長しない」ともいわれます。
その実験のなかで、歯を軽く噛み締めた状態と口を開けた状態で身体バランスに違いがあるかを調べたところ、軽く噛んだ状態のほうが、明らかに身体バランスが安定することがわかりました。また、噛み合わせが合っているか、ずれているかという条件をつけて調べてみると、噛み合わせがずれている状態ではバランスが崩れることもわかりました。
例えばラグビーでスクラムを組み、ぐっと押し込む際に歯を強く噛み締めると、下肢の筋活動が上がります。これは「遠隔疎通」といい、噛むことによって離れた場所の筋肉の活動が高まることも明らかになっています。つまり、しっかり噛めることは、それだけパワーの発揮につながるのです。
さらに、逆に下肢の筋活動が咬筋活動を引き起こすこともわかっています。ラグビーでタックルの瞬間の咬合を調べたところ、必ず噛み締めが起こるという結果が出ました。ちなみにこのとき、きちんと噛める人は筋肉に力が入るため、全身の防御反応が正しく働きます。しかし、しっかり噛めない人はそれができないので、衝撃をダメージとして受けやすくなります。また、20、40、80%と、噛む力が高まるにつれて、血流が増えて脳の活動量も上がることも実証されています。
こうしたことを考えれば、運動をする上で、正しい噛み合わせは必須であるといえます。ですから噛み合わせの悪い人は、矯正をするか、マウスガードやスポーツスプリント(歯頸部を覆うタイプのスプリント)といった装着具を活用することをお勧めします。
私が初めてサポートしたスポーツ選手は、スピードスケートの清水宏保選手でした。彼が日本大学に在籍していた頃、清水選手にスポーツスプリントを使用してもらったところ、後に世界記録を出したのです。
スピードスケートでは、滑っているときはほぼ口が開いていますが、スタートダッシュの際には必ず噛み締める傾向が見られます。清水選手は世界記録を出した際、「スポーツスプリントを入れることでスタートしやすかった」と話していました。
マウスガードの重要な役割として、何よりもまず、外傷予防が第一に挙げられます。
天然歯に鉄球をぶつける実験を行ったところ、歯が欠けたり、割れたり、当たりどころによっては歯根にもダメージを受けたりすることがありました。一方、同じ条件でマウスガードを着けて実験したところ、衝撃が吸収され、歯には全くダメージがありませんでした。また、頭蓋部への影響を調べる実験でも、マウスガードを着けることによって、頭頂部や側頭部にかかる衝撃が減少するという結果が出ました。
マウスガードを着けて強く噛み締めると、首周りの筋肉の活動が上がることもわかっています。ですから外傷の予防だけでなく、頸部へのダメージ軽減や脳振盪を引き起こすリスクを軽減する効果も期待できます。ラグビーなどの激しい身体接触が起こるコンタクトスポーツでは、マウスガードは必需品といえるでしょう。
なお、マウスガードを着用する際は、自分で作るような市販品やホームページに出てくる企業販売のものではなく、必ず専門医にチェックしてもらって作ったカスタムメイドのものを使うようにしてください。適当なものを使用すると、噛み合わせがずれた状態やきちんと咬合調整がされていない状態で固定されてしまうことになり、パフォーマンスに悪影響が出たり、場合によってはケガを引き起こしたり顎関節症を引き起こす要因にもなったりすることもあります。
自分に合ったマウスガードを使用し、外傷予防とパフォーマンスアップにつなげましょう。
【PROFILE】
石上惠一(いしがみ・けいいち)
日本大学歯学部卒業後、1986~88年U.M.D.S. Guy’s Hospital(ロンドン大学)に日本大学海外派遣研究員として留学。99年からCollege of Dent. Kyung Hee University(韓国)客員教授。2001年から東京歯科大学スポーツ歯学研究室主任教授。日本オリンピック委員会(JOC)強化スタッフ・スポーツドクター。日本スポーツ歯科医学会理事(教育普及担当)。
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