スポーツ科学や運動処方の分野において、科学的根拠に裏づけられた事象を推薦する「エビデンスベースド(Evidence Based)」の考え方が高まってきている。長くアメリカで研究活動を行っているテキサス大学オースティン校の田中弘文教授に、そうした事例について、実験結果を用いながら解説していただく。
※本稿は『コーチング・クリニック』の連載「アメリカ発スポーツ医・科学最新情報」第3回として、2017年1月号に掲載した内容を再構成したものです。
一般的なスポーツ活動は、ウオームアップ(準備運動)から始まり、クールダウン(整理運動)で終わります。これらはともに、スポーツ活動において必要不可欠なもののように思われています。
クールダウンはともかく、体育の教育実習やコーチの実習研修などでウオームアップが実習プランに入っていなければ、採点でかなりの点数を引かれるかもしれません。
ウオームアップとは原則として、試合や練習の前に軽・中度の運動を行うことで体温を徐々に上げていき、体調を整えていくものです。心拍数や血流量を高めて神経系の能力を改善し、筋肉や腱を伸ばすことによってケガや障害を予防するだけでなく、競技パフォーマンスを向上させると信じられています。
そのため、小・中・高の育成年代から、ジョギングなど一般の運動を楽しむ人、そして一流のスポーツ選手まで、 ほとんどすべての人がウオームアップを実施するわけですが、果たして、その効果に関してはどの程度の実験証拠があるのでしょうか。
ウオームアップの手法の代表格といえばストレッチングでしょう。通常はウオームアップの一環として、軽・中度の運動後に行います。ウオームアップで筋肉や腱を温めて伸ばしやすくすると、ストレッチングの効果がより高まると思われていたためです。
しかし、軽・中度の運動とストレッチングとを混合したウオームアップでケガや障害が予防できるかというと、それを支持する実験結果はあまりありません。また、激しい運動を行った翌日や2日後に起こる筋肉痛を予防するか否かという点についても同様です。
それゆえ、ケガや障害を予防するためだけにウオームアップやストレッチングを行っているのであれば、実はさほど意味がないことといえるのかもしれません。
ただし、ここで気を付けなければならないのは、多くのスポーツ選手やスポーツ愛好家にとっては、ウオームアップやストレッチングがこれまでずっと続けられてきた“日課”“習慣”になっていることです。効果がどうであれ、実施しなければ不安だという人もかなり存在するでしょう。
行わないことで心理的に逆効果に働いてしまう人にとっては、マイナスではない限り、ストレッチングを含むウオームアップを今後も継続していくのがよいといえそうです。
それでは、ウオームアップを実施することによって競技成績、すなわちパフォーマンスを向上することはできるでしょうか。
スポーツ競技によって異なりますが、ウオームアップを行うと、ほとんどの競技種目においてそのパフォーマンスは向上されると報告されています。野球のピッチングや、やり投げのような投げる競技、それから垂直跳びのような瞬発力を要する種目では、ウオームアップの効果がより顕著に出ます。水泳ではさほどきれいには表れていませんが、それでも効果はあります。
考えてみれば、ウオームアップにはその競技種目に必要な動きやスキルの反復練習が含まれていますから、パフォーマンスの向上につながるのも理解できます。このことからも、パフォーマンスを尊重するスポーツ選手にとって、ウオームアップは必須であると考えられます。
ここで、最近注目を集めている面白い研究を紹介しましょう。
サッカー、ラグビー、アメリカンフットボール、バスケットボールなどの球技では、前半と後半の間にハーフタイム(休憩)が設けられています。競技によって異なりますが、短ければ10分、長ければ30分、平均すると15分程度の休憩時間になります。
ハーフタイムを終えてロッカールームから出てきた選手のなかで、再度ウオームアップをするケースはほとんど見られません。既に半分(前半)の身体運動を終えているので、もう一度身体を温め直す必要はないということなのでしょう。
しかしながら、前半の運動で上昇した体温は、ハーフタイムの間に安静時に近いところまで下がってきます(下図)。ハーフタイムを終えてグラウンドやコートに出てきたときには、ウオームアップ効果は消えてしまっているのです。
最近発表されたある研究では、1チームのラグビー選手を「ハーフタイム中に何もせず、座ってコーチの話を聞く」グループと、「断熱効果があるサウナスーツのような衣類を着込んでコーチの話を聞く」グループとに分けて、体温の変動を比較しました。
その結果、サウナスーツを着ているグループは、ハーフタイム中の体温の低下を防ぐことができ、試合前のウオームアップ効果を維持できているおかげで、後半のパフォーマンスが著しく高いことがわかりました。また、ハーフタイムの残り2~3分で再度ウオームアップを行うことにより、後半の筋力や瞬発力を含むパフォーマンスが向上したという結果も出ています。
勝敗の行方は、後半のパフォーマンスに大きく支配されることからも、冬のように寒く体温が低下しやすい日の競技**では特に、こうした方法で後半のパフォーマンスを上げることも、試合に勝つためには有効な手段の1つなのかもしれません。
こうしてみると、一体どのような背景でウオームアップというものが生まれたのか、不思議に思うかもしれません。
筋肉の運動は、車のエンジンによく例えられます。昔の車やバイクは発車する前にアイドリングする(負荷をかけずに低速で空回りさせる)ことで、しばらくエンジンを温めていました。当時は、エンジンを長持ちさせるにはアイドリングが欠かせないと考えられていたからです。
要するに、エンジンのウオームアップをしていたというわけです。ウオームアップの概念はおそらく、このようにして生まれたのではないかと考えられています。
そんなウオームアップを行うことによる負の効果も、実はあります。それは真夏のように、湿気が高く暑い日に行う運動の場合です。このような日は、運動中に体温が通常よりも顕著に上昇します。 そのような環境下でウオームアップを行うということは、体温がより高い状態で運動を始めることになります。それに伴って疲労症状がより早く現れるだけでなく、熱中症などにも陥りやすくなり、パフォーマンスは低下してしまいます。
このようなときにはウオームアップを行わずに、氷の入ったベストなどを着用して体温を下げる手法が用いられています。暑くて湿気の高い日にもかかわらず、ベストを着ているマラソン選手を見かけるのはこのためです。
実際に、自転車競技選手を対象とした研究で、持久性のレース前にあらかじめ体温を下げて、最高体温との差を広げておくことで、持久性パフォーマンスが向上するという結果が発表されています。
著者プロフィル
田中弘文(たなか・ひろふみ)
1966年、東京都生まれ。国際武道大学卒業。アメリカ・インディアナ州のボール州立大学大学院修士課程修了。テネシー大学大学院博士課程修了。コロラド大学助教授、テキサス大学助教授、ウイスコンシン大学准教授、テキサス大学准教授を経て現職。専門は運動生理学。
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