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2018-01-19

2017年度インカレ王者・監督インタビュー 中野雄二の「マイ・コーチング・ロード」 「大事にしているのは学生たちの将来。 大学4年間で彼らに財産をもたらしたい」

12月13日から24日まで行なわれた『第66回全日本大学サッカー選手権大会(インカレ)』を制したのは、3年ぶり2度目の優勝となった流通経済大学(茨城県)だった。ここでは、1998年から同大学の監督として指導にあたり、これまでに多くのJリーガーを育ててきた中野雄二・監督に、自身の考え方やこれまでの歩みを聞いた。
(出典:サッカークリニック2018年1月号)

取材・構成/安藤隆人 写真/安藤隆人、関東大学サッカー連盟・飯嶋玲子

日本人には大学でも
人間教育が必要

──指導理念を教えてください。

中野 大学サッカーの監督は、選手が社会に出る前の人間的な成長も考える方が多いと思います。日本はまだ、「部活=人間教育」といった部分が残っていると思っていますし、私もその志を持ってやっています。
 確かに、人間教育は高校で終えるべきかもしれませんが、日本は大学でも求めていいと思います。ヨーロッパや南米、アメリカなどの18歳と日本の18歳と比べると、日本の18歳には幼さを感じます。大学を卒業する22歳が、海外の18歳と同じくらいかなと思っています。

──大学サッカーの監督をやる上で、難しさややり甲斐はありますか?

中野 実は、難しさをあまり感じたことがないのです。私は、自分の思うままを正直に学生たちに伝えたいと思っています。若い頃は正直、「結果を出したい」、「自分が有名な監督になりたい」、「Jリーグの監督になりたい」と、自分の野心のほうが先にありました。自分のため、自分の目指す結果のために頑張っていた時期もあったのです。
 どの辺りから変われたのか、はっきりとは覚えていないのですが、指導を続けていくうちに、目の前にいる学生たちに「財産」をもたらしたいと考えるようになったのです。彼らの将来を考えたときに、「このままで世の中を生きていけるのか?」、「このままで上にいって通用するのか?」という疑問が生まれました。自分の目先の部分も大事ですが、より大事なのは、学生たちのこの先の生き方です。その視点で学生たちを見るようにしてみたら、イライラすることもなくなりました(笑)。

──では、指導者人生を振り返ってください。

中野 さまざまな失敗をしてきました。それでも、周りに助けられてここまできた指導者人生です。指導者としてだけでなく、教員としてもそうです。ただし、「同じ失敗を繰り返さない気持ち」は必ず持つようにしてきました。

──いつ頃から、指導者、あるいは監督を目指してきたのですか?

中野 大学卒業後、すぐに水戸短期大学附属高校(現在の水戸啓明高校)の教員になり、サッカー部の監督に就きました。大学時代に住友金属のサッカー部から誘われたのですが、まだJリーグのない時代でした。日本サッカーリーグ(JSL)などでプレーするよりも、高校サッカーで指導者をしたいと思っていたのです。ちなみに、私は大学を卒業してから指導者になりましたが、コーチの経験はなく、監督しか経験していません。

──なぜ、高校サッカーで指導したいと思ったのでしょうか?

中野 茨城県立古河第一高校で1年生からレギュラーとなり、卒業するまで主要な試合はすべて出場し、1年生のときと3年生のときの全国高校サッカー選手権大会で優勝することができました。素晴らしい経験を高校の3年間でさせてもらい、法政大学でもプレーしていましたが、大学の先輩から、「お前は指導者が向いている」と言われたのが大きかったです。その後は悩みましたが、よく考えた結果、指導者のほうがやり甲斐があると感じました。
 加えて、「高校サッカーの監督になってテレビに出たい」という気持ちもありました(笑)。当時の日本サッカーの花形は高校選手権でした。中学生の頃から高校選手権をテレビで見ていて、「自分もこうしてテレビに出たい」と思って古河一に入ったら、いきなり1年生でレギュラーとして大会に出場し、優勝もできたのです。
 ただし、2年生では茨城県予選の決勝で敗れてしまいました。その悔しさから、3年生でキャプテンになったとき、チームの先頭に立って周りに厳しく接するようにしたのです。そのようにしてチームを戦える集団にしました。当時の仲間からも「かなり怖かった」と言われるくらいです。しかし結果的に、高校選手権で再び優勝できました。私には高校3年間の経験が忘れられませんでした。高校サッカーにまた関わりたいと思うようになったのです。

──水戸短大附属高校では5年半指導しました。

中野 最高で茨城県の決勝までいけるようになりました。しかし、就任6年目のインターハイ予選で水戸商業高校に敗れたあと、試合判定を巡って保護者が騒ぎを起こしたのです。そうしたら、「その騒ぎは中野が先導した」という誤解が広まってしまったのです。6年目の高校選手権の茨城県大会を前に、教員自体を辞めることにしました。

──その後はどうしましたか?

中野 約10カ月の間はサッカー関係者とほとんど連絡をとりませんでした。何もせず、実家暮らしです(笑)。そのときに離婚もし、本当につらい時期でした。

──自暴自棄になったのですね。

中野 ひどい毎日でした。しかしある日、プリマハムの広報室長だった坂本壽夫さん(現在は横浜FCの副会長)が声を掛けてくれたのです。プリマハムで男子を強化したいという話になったとき、法政の出身だった坂本さんは法政のOBに「いい指導者はいないか?」と聞いて回っていました。そのときに、私の話が出たそうです。1991年にプリマハムに中途採用してもらい、サッカー部の監督に就きました。

──今度は社会人チームを率いることになったのですね。

中野 当時、社員としてプリマハムに入社してきたのが、大平正軌と手呂内勝政でした。のちに、流通経済大学で私の下でコーチを務めてくれる2人です。選手として彼らが加わってから、茨城県リーグから関東リーグに昇格し、全国社会人大会でも優勝を経験し、国体でも成年男子の単独チームとして参加して優勝するなど、一気に結果を残すことができたのです。
 最終的には就任6年目の1996年に全国地域サッカーリーグで準優勝し、JFL昇格を手にしました。その後、プリマハムがサッカー部への支援を打ち切ったのもあり、FC水戸と合併して水戸ホーリーホックが誕生したのです。

流通経済大学は、川崎フロンターレへ加入したMFの守田英正、ベガルタ仙台へ加入したFWのジャーメイン良ら、2017年度のチームもタレントぞろいだった。『関東大学サッカーリーグ1部』では3位、『第66回全日本大学サッカー選手権』では優勝という成績を収めた

サッカーに向き合える
環境づくりは大事

――ホーリーホックでは初代監督を務めました。

中野 『株式会社水戸ホーリーホック』という会社を立ち上げました。私は出資者の1人で、常務取締役兼監督という肩書でした。JFLの監督を1年やったのですが、プロとは言えない厳しい環境だったのもあり、最下位に終わりました。成績不振の責任を取る形で解任となってしまったのです。監督とともに常務取締役も解任されました。自由の身となったときに、当時の流経の学長が法政のOBだったこともあり、流経の監督に就くことができたのです。

──法政の絆はかなり強いのですね(笑)。

中野 実は、プリマハムがサッカー部への支援を打ち切ることを決めたときに学長からオファーをもらっていたのです。しかし、自分だけ行くわけにはいかない、という思いがありました。大平や手呂内などのプリマハムの選手の面倒を見る責任があると感じていたため、ホーリーホックの監督になったのです。しかし、ホーリーホックの監督を解任されてしまいましたので、ありがたく引き受けました(笑)。

──流経の監督としての20年がスタートしました。

中野 補足をしておくと、流経の監督となったときに、「中野」という名字を使うようにしました。私は生まれてからずっと「小宮」姓でしたが、プリマハムの監督をやっていた32歳のときに現在の奥さんと再婚しました。婿に入る形となり、名字が小宮から中野に変わっていたのです。

──紆余曲折を経て流経にやってきたのですね。

中野 だからこそ成長できたと思いますし、多くの経験が現在の流経大ではすごく活かせていると思います。
 監督就任当時、私がやりたかっったことは2つありました。1つは「ホーリーホックよりも素晴らしい組織を必ずつくる」です。選手のために素晴らしい環境を与え、プロ顔負けの組織をつくりたかったのです。もう1つは「4度目のクビには絶対にならない」。高校の教員を辞め、プリマハムも実質リストラ、ホーリーホックもクビになっていたからです(笑)。

──中野監督は就任当初から熱心に環境づくりをしてきました。

中野 流経は茨城県リーグからのスタートでした。戦力は低いばかりか、施設も良くありませんでした。そのため、まずは2億円をかけて寮を建てたのです。当時はまだ、自分の家すら買ったことがないのに2億円の買い物をしたわけです。私にとってはリスクしかありませんでした(笑)。しかし、流経を本当に強くし、立派な組織にするには、選手を惹きつける環境が必要だと思っていました。当時はまだ、タバコをすったり、改造車を乗り回したりする学生などがいましたが、何とか彼らを真剣にサッカーに向き合わせたいと思っていました。その上で有力な新を入れていければいいと思っていたのです。環境整備が良かったのか、サッカーに真剣に向き合うようになり、結果もついてくるようになりました。
 監督就任2年目で関東大学リーグ2部に昇格し、翌年に降格してしまいましたが、就任5年目の2002年に再び2部昇格となった際は翌年に1部昇格も果たし、以来、ずっと1部で戦うことができています。

龍ケ崎市と流経の
良好な関係

──サッカーの指導者と教育者に加えて、中野監督は経営者的な視点も持ち合わせていると思います。

中野 経営者的な視点は大事です。例えば、「与えられた予算を使い切るのか」、「支出を減らしてギリギリのところで利益を上げるのか」。私はどちらも重要だと思っています。その上で、将来を見据えて、より多くの利益を生み出せる組織にしなければいけません。
 例えばスポンサー企業に対しても、ただお金を出してもらうのではなく、お金に見合ったメリットを返せないといけません。「ウィン・ウィンの関係」は常に意識しています。相手の意図を考えた上で私たちが返せることをするのです。でないと深い信頼関係は築けませんし、私たちを支えてくれる存在ではなくなってしまいます。

──その考え方こそ経営者ですね。

中野 例えば、寮の中を綺麗にすることも大事です。グラウンド周辺の雑草を抜いたりして芝生も綺麗にし、トイレや自動販売機の前も綺麗にしておけば、私たちのスポンサーになって下さっている方々がいつ来ても、「いつもきれいで手入れが行き届いている。素晴らしい環境だ」と少しでも思ってもらえるかもしれません。気持ち良く帰っていただけたら、また次の投資につながるかもしれません。

──切り取った一瞬に日常が出ます。

中野 誰かが来られるときだけ綺麗にしたり、きちんとしていたりしても、すぐに見透かされてしま
うものです。

──今では人工芝ピッチが3面とクラブハウスがある練習環境です。選手寮も4つに増えました。チームも関東大学リーグ1部やJFLなどで活躍し続け、龍ケ崎市に根づく大きな組織になりました。

中野 10年前、行政がJFL用のホーム・スタジアムとして『龍ケ崎市陸上競技場たつのこフィールド』を建設してくれました。現在のトレーニング施設も同時期に完成したものです。地域の協力と共に成長していくことがすごく重要だと感じました。今では、龍ケ崎市にとっても流経に対するイメージはこの20年で大きく変わったと思います。流経が、少しでも誇れる存在になってきたのではないかと思っています。

――これまでの失敗や多くの経験などがすべて財産になっていると感じます。

中野 いろいろありましたが、すべて財産です。奥さんからは「あんたを『小』から『中』に引き上げてあげたんだから感謝しなさい」と言われますしね(笑)。本当に感謝しています。

――最後に、中野監督の夢を教えてください。

中野 実は悩んでいます。一方では、指導現場が大好きなので、死ぬまで現場にいたいと思っている自分がいます。しかし、指導の分野は世代交代が欠かせません。次の世代にポジションを与え、自分の役割をどんどん変えないと次の世代が成長しません。そのためもう一方では、現場から一歩離れた立場で組織を見ることも大事だと思う自分もいるのです。正直、迷っています。これからじっくり考えたいと思います。

PROFILE
中野雄二(なかの・ゆうじ)/ 1962年10月17日生まれ、東京都出身。茨城県立古河第一高校では1年生と3年生のときに全国高校サッカー選手権大会で優勝。法政大学では2年生のときに総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントで優勝。現役引退後は、水戸短期大学附属高校、プリマハム土浦FC、水戸ホーリーホックで監督を務め、98年に流通経済大学の監督に就任した。林彰洋(現在はFC東京)、山村和也(現在はセレッソ大阪)ら多くのJリーガーを育てたほか、全日本大学サッカー選手権大会優勝1回(2014年度、17年度)、総理大臣杯優勝3回(07年度、13年度、14年度)、関東大学サッカーリーグ1部優勝3回(06年度、08年度、09年度)と、獲得タイトルは多数

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