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2019-06-25

私の“奇跡の一枚” 連載21 三つ子の魂百まで!? 豆呼出し・勘太郎

写真の凛々しくもかわいい少年は、のちの立呼出し・寛吉さんの幼少のみぎり(小学4~5年?)、地方巡業中のスナップである。当時は、本名の寛吉のカンを、昔の名呼出し・長谷川勘太郎に引っ掛けて勘太郎と呼ばれていたようだ。

※写真上=意志の強さと負けん気が体と表情から発散しているカンタロウくん。ここから道一筋、呼出しの仕事を芸にまで高めていき名呼び出し「寛吉」となった
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

こんな豆呼出しがいた

 呼出しの装束にきちんと身を固め、四本柱を背にしているいたいけな少年のこのような姿は、行司や呼出しの協会採用条件が義務教育終了後と定められている現在では、考えられないだろう。しかし戦後20年代までは、豆行司、豆呼出しと呼ばれる少年たちの存在があった。

 苦労を苦労とあまり感じない子ども時代であっても、それなりにつらい思い出があるはずだが、この表情は、そんな様子を感じさせない。

 先輩たちのこういう写真を見ると、中学卒業前に入門した私も、自分の写真を見る以上に、人には言えぬつらさに堪えた修業時代を重ねてしまうのである。

鍛えに鍛えたノド

 当時の呼出したちは、呼出しと称してはいるものの、呼び上げを担当する者は意外と少なく、土俵築きや櫓太鼓、売り物、役員室の世話係などに携わっている人員のほうが多かった(全員が仕事として呼び上げるようになったのは昭和40年から)。

 そんななか、大関鏡岩(粂川親方)の縁続き(母方)だった寛吉さんの土俵人生は、昭和13年暮れ、満8歳になったばかり、青森県五戸町から上京し、土俵築きの名人であった叔父、呼出し関造の養子となる形で始まった。初土俵は双葉山70連勝ならずの14(1939)年1月場所。

 もちろん呼出し最年少。大人たちに囲まれ、最初に出た巡業は「鏡岩・磐石・幡瀬川一行」だったという。力仕事は大人たちが引き受け、寛吉さんはそのかわいい姿もあって、もっぱら呼び上げのほうを担当することに。名呼出しとして人気のあった小鉄さんの手ほどきを受けながら、たった二人で一行の取組を呼び上げたという。以来その呼出しの本業に精魂を傾けてきたのである。

 いくら疲れを知らない子どもでも、霜が張り付く厳寒のなか、数十番を呼び上げるのは本当にきつかったはずだ。まだ幼く、漢字もろくに覚えていないため、手元のメモ(左手に握った小紙片!)にカタカナで四股名を書いてもらって呼出しをこなす毎日だったという。そうやって半世紀を超えて積み上げ、磨き抜いてきた呼び上げ芸が日本中の人を魅了したのは当然のことだったろう。

真剣な呼び上げ態度

 私が寛吉さんの仕事で印象的なのは、その呼び上げの際の真剣さだ。絶対に手を抜いたり調子をおろしてやるようなことをしなかった。子どものころから打ち込んできた仕事だ。誰にも負けないという自負があったに違いない。

 それがあったからこそ、42年春場所、37歳の若さで我ら呼出しの頭領となり、何人もずっと年上の“弟弟子”たちを束ねながら、平成9(1997)年の停年まで28年間をまっとうできたのだと思う(平成20年77歳で没)。

 私は昭和25年11月、伯父多賀之丞のつてで14歳で入門して以来51年7カ月この世界に身を置かせてもらったが、私より7歳年上の寛吉さんはなんと58年間! いかに白扇の世界を知り抜いたエキスパートであったかが分かるだろう。

語り部=元副立呼出し・三平(高砂部屋。本名・伊藤三平)
写真:月刊相撲

月刊『相撲』平成25年10月号掲載

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