※写真上=史上最年少、21歳2カ月で横綱に昇進した北の湖(太刀持ちは同期の増位山太志郎)
写真:月刊相撲
果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。
春、といっても、まだ3月の大阪の町を吹き抜ける風は身を切るよりに冷たい。すれ違う人々はみんな、寒そうにコートの襟を立てていたが、やっと頭にチョンマゲが載ったばかり北の湖は、まるで北風に逆らうように着物の裾を蹴散らし、肩を怒らせて歩いていた。
前の場所、まだ初土俵から丸1年しか経っていないにもかかわらず、北の湖は序二段で7戦全勝と負け知らず。惜しくも千秋楽の優勝決定戦では負けてしまったが、早くも大物の片鱗を垣間見せ、この場所は三段目の西20枚目まで昇進した。
ところが、今度は一転して連戦連敗。とうとうこの日、前の場所とまったく正反対の7戦全敗が決まってしまったのだ。
一番一番を見ると、どれも勝機十分の相撲内容ばっかりだったが、この白星と黒星の違いは、まだ14歳、中学2年生の北の湖の自信を木っ端微塵に打ち砕き、天国から地獄に突き落とすのに十分だった。
恥ずかしさと不甲斐なさでいたたまれなくなり、終盤の熱気に包まれた大阪府立体育会館を飛び出した北の湖の脳裏に、北海道を出るとき、
「いいか、お前は自分から入門したいと言ったんだから、一人前になるまで帰ってくるんじゃないぞ」
と言った父の勇三の顔が不意に浮かんできた。
三保ケ関親方(元大関初代増位山)が、
「北海道の壮瞥町に怪物がいる」
という情報とともに、その怪童の一葉の写真を入手したのは、昭和41年(1966)4月、北の湖が中学に入学した直後のことだった。ただ、その写真は北の湖の1年近く前のもので、身長はまだ160センチ、体重も60キロあまりしかなかった。これでは身体検査の合格ラインに到達していない。このため、わざわざ東京から飛んで来た三保ケ関親方は、改めて北の湖の身長や体重を聞きもせず、
「いいかい。もっと大きくなったら、東京のおじさんの所に来るんだよ。うんと食べて横になると、体はどんどん大きくなるからね」
と言い置いて帰ってしまった。
もしこのときの写真が、すでに173センチ、75キロと合格ラインを突破しているものだったら、三保ケ関親方は別のアドバイスをしただろうし、北の湖の力士スタートも、もっと違ったものになっていたに違いない。
というのも、北の湖はこの三保ケ関親方の指令を忠実に守り、「ただいま」と学校から帰ってくると、カバンを放り出し、
「親方がこうしろ、と言ったんだから」
とお腹いっぱい食べて一日中寝ている、という生活を実行したのだ。
おかげで体重はわずか3週間で100キロの大台を突破したが、このおよそ子どもらしからぬ生活に、息子の健康を気遣う両親がたちまち悲鳴をあげたのだった。
このため、急きょ、三保ケ関親方と連絡が取られ、この年の10月、北の湖は迎えに来た三保ケ関親方とともに上京、部屋の近くの両国中学に転校し、力士としての第一歩を踏み出した。
「初土俵は昭和42年初場所です。当時、中学生力士は公認されていましたからね。そんなに早く親元を離れてつらくなかったか、とよく聞かれるけど、オレはこの世界の水がよほど性に合っていたのか、一度も田舎に帰りたい、と思ったことはなかったですね。なにしろ入門してすぐ10キロ太りましたから。8人兄弟の7番目で、両親も手放しやすかったんじゃないかなあ。入門したとき、中学生力士は全部で3人いましたよ。みんな途中で辞めちゃいましたけど」
と、それから18年後の昭和60年初場所2日目、多賀竜に敗れて引退を表明、数々の功績を認められて一代年寄「北の湖」を許された北の湖親方は、自分の新弟子時代を振り返った。
そんな水を得た魚のように、生き生きとこの大相撲界を泳ぎ回っていた北の湖が、初めて味わった勝負の世界の厳しさが、この7連勝7連敗だった。
こんな人生の谷間に踏み迷ったときはどうやって立ち直るのか。まだ対処法を知らなかった少年の北の湖は、ただ歯を食いしばって、大阪府立体育会館の周りの道をやみくもに、歩き回るしかなかったのだ。
しかし、北の湖がこのショックから立ち直るのに、そんなに時間はかからなかった。気の強さは生まれつき。たとえ相手が年上でもまったく容赦しないでにらみつけ、勝っても助け起こすようなことは絶対せず、後も見ないで引き揚げる、という後年の憎たらしいほどのふてぶてしさは、すでにこの当時から備わっていたのである。
この北の湖の、前しか見ない姿勢が、間もなく大きな転機をもたらすことに――。この屈辱の7戦全敗からわずか半年後の秋場所、北の湖は、またまた初日から3連敗して、地獄にはまり込んでしまった。
8日目の4番相撲の相手は、朝桜(高砂)だった。まだ全敗の記憶が生々しく残っているだけに、土俵に向かう北の湖の心境がどんなものか、想像がつく。
――どうやったら、この地獄から抜け出せるんだろう。
北の湖の心は、不安と戸惑いで風に舞う木の葉のように揺れていた。3場所前の連敗のときは、とにかく一つ勝ちたい、という気持ちが先に立ち、突っ張ったり、四つになったりと、相手に合わせていろいろ慣れないことをし過ぎたのが、傷口を大きくした原因だった。今度もそうするとまた同じ結果を招く。なにしろ、この当時の北の湖はまだ入門して日が浅く、突っ張るか、左四つに持ち込んで吊り出すかの、2つしか相撲を知らなかったのだ。
――ようし、もうこうなったら、余計なことはしないし、考えない。オレには、あの2つの攻めしかないんだから、それに徹しよう。
これが、散々思い悩んだ中学3年生の北の湖が取組前にたどり着いた結論だった。一種の開き直り、と言っていい。
こうして、雑念を払いのけた北の湖は、行司の軍配が返ると、朝桜の胸を目がけて猛然と突っ張り、左四つに持ち込むと十分に廻しを引き付け、すでに膨らみ始めていたお腹に乗せて高々と吊りだした。
中日でやっと連敗ストップの初白星。勝ち名乗りを受けながら、北の湖は、
「これがオレの相撲だ。この世界は、勝たないと話にならない世界。もう、勝ちパターンが少なくても気にしない」
と改めて自分に言い聞かせた。この1点に徹することこそ、大成の要諦。北の湖は、なんとわずか15歳でここにたどり着いたのである。
この一番で目からうろこが落ちた北の湖は、この場所、さらに前半とは別人のような相撲で3連勝し、全敗どころか、逆に4勝3敗と勝ち越してしまう。
これですっかり自信と弾みがついたこの怪童は、両国中学を卒業の44年春場所には、早くも幕下東38枚目まで駆け上がり、それから2年後の46年夏場所、待望の十両昇進を果たしたのだった。
このとき、北の湖は17歳11カ月。これは平成元年に、貴花田(のち横綱貴乃花)に破られるまで、18年間も十両昇進の最年少記録だった。(続)
PROFILE
北の湖敏満◎本名・小畑敏満。昭和28年(1953)5月16日、北海道有珠郡壮瞥町出身。三保ケ関部屋。179cm169kg。昭和42年初場所初土俵、46年夏場所新十両、47年初場所新入幕。49年初場所、初優勝した場所後、大関昇進。同年名古屋場所後、史上最年少の21歳2カ月で第55代横綱に昇進。幕内通算78場所、804勝247敗107休、優勝24回、殊勲賞2回、敢闘賞1回。昭和60年初場所、引退。一代年寄を贈られ、同年12月、北の湖部屋創設。平成14年2月、相撲協会理事長に就任。在任中の27年11月20日没、62歳。
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