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2018-11-30

【連載 名力士たちの『開眼』】関脇・富士櫻栄守編失意を逆にエネルギーとした「突貫小僧」――[その3]

※写真上=豪放磊落で「力士らしい力士」だった富士櫻
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】稽古に精進するいっぽう、豪快に酒も飲んだ昭和49年初場所、3横綱を総なめして力士生活のクライマックスを迎えた。だが翌50年夏場所、天覧相撲で麒麟児との歴史に残る激闘に敗れ、「押し相撲ナンバーワン」の称号を奪われてしまう――

突然とりつかれた原因不明の病

 勝負の世界は油断大敵。富士櫻が、いいときほど足元に落とし穴が隠れている、ということを思い知ったのは、3横綱総なめをした翌場所のことだった。

 歴史的な快挙をやってのけた直後だけに、この49年(1974)春場所、初の関脇に昇進した富士櫻に寄せられた期待は、火傷しそうなくらい熱かった。

 しかし、それに応えるように富士櫻も元気いっぱいで、場所前の稽古もそれこそガンガン。ところが、初日まであと3日という昼下がり、昼寝から覚めた富士櫻は、額の眉毛の上辺りがなんとなく腫れぼったく感じた。

「あれっ、どうしたんだろう」

 と思っていると、やがて夕方から発熱して、その額一面にブツブツと発疹が現れて頭痛がし、さらに、喉のリンパ腺が腫れ上がったのだ。

「ヘルペス性帯状発疹」。これが慌てて駆け込んだ病院の下した病名だった。当然のことながら、とても稽古どころではない。

 この天から降ってきたような病気のために、この場所の富士櫻はまったくいいところなく、わずか2勝(13敗)に終わった。

 しかも、このあとも、ちょっと体調を崩したり、稽古をやり過ぎると、すぐこの病気が顔を出して、せっかっく稽古して積み上げてきたものをズタズタにし、引退するまで苦しめられることになった。富士櫻の成績の波が大きかったのは、突然とりつかれた、この原因不明の病気によるとことが大、だ。

 しかし、たとえ病気やケガをしても、体が動く限り土俵に上がって水準以上の相撲をお見せするのが、プロの責務。入門したときから一日も休まず、土俵上で全力を尽くしてきた富士櫻の信念も、とうとうピリオドを打つときがきた。

 初土俵から22年目の59年初場所3日目の斉須戦。すでに35歳とベテランの仲間入りをしていた富士櫻は、いつものようにこの若手を押して西土俵に追い詰めた。ところが、あと一歩、というところで、左の足首に痺れたような痛みを感じ、そのまま瓦礫が崩れるようにガクッと崩れ落ちたのだ。

「押してる最中に、急にガクンと左ヒザが落ちたので、最初はなにがなんだかワケが分からず、行司さんの足にでも引っ掛かったのかな、とボンヤリ思ったんですよ。ところが、相撲診療所にかつぎ込まれ、アキレス腱が切れている、と分かった瞬間、もう頭の中はパニック状態。思わずチクショーと叫んでしまいました。このとき、西の10枚目で、もう(十両落ちに)あとがありませんでしたしね」

 と、当時の中村親方の脳裏には、この連続出場が1543回でストップした日のことが、昨日のことのように生々しく息づいていた。

弟弟子・朝潮と激しい稽古を繰り広げる富士櫻(後ろは高見山)
写真:月刊相撲

周囲も驚く復帰後の勝ち越し

 翌日、蔵前国技館と隅田川を隔てたところにある同愛記念病院で、切れたアキレス腱をつなぐ手術を受け、退院したのは、それから6週間後のことだった。

 その入院生活で、左足は右足に比べて三まわりも細くなった。さらに、親方やまわりの者たちは、富士櫻の36歳という年齢や、再起を期すところが十両、ということなどを考慮して、十人中九人が、

「もうさすがの突貫小僧もダメだろう」

 という予想を立てた。しかし、次の春場所は公傷の適用でリハビリに励み、5月の夏場所、2場所ぶりに土俵に現れた富士櫻の相撲を見て、みんな思わず目をこすった。想像していたよりも、あまりにも若々しかったからだ。

 そして、13日目の霧島戦。富士櫻は、まるで2場所前に、生まれて初めての大ケガをしたのがウソのように、頭から強くぶつかると、この廻しを取ったら別人のように力を出す若手を、一方的に攻めまくって突き出し、この場所、8個目の白星をもぎ取ったのだ。復帰早々、自分でも予想していなかった、奇跡的な勝ち越しだった。

「入院中は、とにかくもう一度、ちゃんと足を治して土俵に上がってやる、ということだけしか考えませんでした。でも、いきなり勝ち越せるなんて、望外も望外。あの霧島に勝ったときは、さすがに感激しましたね。次の場所はやっぱり負け越しましたけど、その次の秋場所、また10勝したんですよ。そこで、ようし、こうなったら頑張って、もう一度、幕内に返り咲いてやる、と色気を出したんですが、さすがにそう甘くはありませんでした。10日目の栃赤城戦で、稽古場でもやったことがない逆とったりにいって、今度は左のヒジを痛めてしまい(左上腕骨剥離骨折)、万事休す。とうとう幕内にはカムバックできずに終わりましたけど、やるだけのことはやりましたから、悔いはありませんでした。もう一度、生まれ変われたら? もちろん、また力士になりますよ。ただし、今度は背が高くて、頭からいかなくてもいい力士になりたいですね」

 中村親方はこう言うと、豪快に笑い飛ばした。引退は、両国の新国技館に移って2場所目の60年春場所限り。通算133場所。いかにも富士櫻ならではの矢突き、刀折れた、さわやかで華々しい散り際だった。(終。次回からは横綱・北の湖敏満編です)

PROFILE
富士櫻栄守◎本名・中澤榮男。昭和23年(1948)2月9日、山梨県甲府市出身。高砂部屋。178cm141kg。昭和38年春場所初土俵、45年初場所新十両、46年秋場所新入幕。幕内通算73場所、502勝582敗11休、殊勲賞2回、敢闘賞3回、技能賞3回。60年春場所引退、年寄中村を襲名後、61年5月に分家独立、平成24年12月まで中村部屋を経営した。25年2月に停年退職。

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