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2018-11-16

【連載 名力士たちの『開眼』】 関脇・富士櫻栄守 編 失意を逆にエネルギーとした「突貫小僧」――[その1]

※写真上=押し相撲を貫き通し、「突貫小僧」と呼ばれた富士櫻
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

天狗の鼻をへし折られた「お山の大将」 

 あのときのことを思うと、いつも富士櫻(初土俵時の四股名は本名の中澤、3場所目に富士櫻と改名。ここでは富士櫻に統一)は、苦いものがこみ上げてきて口中に広がった。それほどまんまとしてやられたのだ。

 それは富士櫻が甲府市の西中学を卒業する直前のことだった。同じ年齢で、のちにプロ野球界入りし、巨人のエースになった同じ甲府市内の南中学の堀内が、生意気で、小天狗とか、悪童とか、と言われたように、富士櫻も怖いもの知らず。体も身長175センチ、体重77キロと周りの同級生に比べると明らかにひと回り大きく、

「オレは大男なんだ」

 と、頭から信じて疑わない少年だった。このため、同じ山梨県出身の幕内力士、富士錦(6代高砂親方、最高位は小結、昭和39年名古屋場所に平幕優勝している)が、人づてに富士櫻のことを聞いて、

「どうだ、力士にならないか」

 とスカウトに現れる前から、もうこの甲府盆地から打って出る気十分。こんな富士櫻のはやる気持ちを見透かすしたように、わざわざ羽織、袴の正装でやってきていた富士錦は、

「オレだって、このくらいの身長しかないんだから。君なら大丈夫。絶対やれるよ。ホラッ、見てごらん」

 と富士櫻の横に立った。なるほど、そっと横目で見てみると、確かに自分より小さいくらいだ。

「なあんだ、力士といったって、ホントにたいしたこと、ないんだ。ようし、やってみるか」

 この背くらべが富士櫻の心をさらに大きく揺り動かした。このとき、富士櫻は、まさかこの富士錦が袴の中でヒザを曲げていたとは、思いもよらなかったのである。

 入門は昭和38年(1963)春場所。部屋の入り口を潜ってすぐ、富士櫻は郷土の先輩にうまくハメられたことに気付いた。周りを見渡すと、「大きい」と思っていた自分が、実は一番小さいことが分かったからだ。しかし、富士錦を捕まえて文句を言ってみても、すでに時遅し。船は港を離れたあとだった。

 その上、腕力も弱ければ、器用でもない。故郷ではお山の大将だった富士櫻は、あっという間に天狗の鼻をへし折られ、自分にはなんの特技もない。八百屋の店先に並べられている一山いくらの野菜か、果物なのに気付いた。

高砂親方(元小結富士錦)の指導の下、稽古では徹底的に「押し」を貫いた
写真:月刊相撲

暗闇の中から出口を探して模索

 逃げ出そうか。だまされて連れてこられたんだから。そうするのが当然のような気がした。しかし、それだけでは、とてもこの怒りや恨みは収まりそうもない。

 ようし、それじゃ、この小さくてなんの取り柄もない体で、どこまでやれるか。だまされついでに試してみようか。これなら、負けず嫌いの富士櫻の気持ちもなだめられそうだった。そもそも、周りのみんなが大きかったので辞めてきました、と帰ったのでは、一人前の立派な関取になって来いよ、と送り出してくれた友達や、近所の人に合わせる顔がない。

 とはいうものの、このないない尽くしの中から這い上がるのは、並大抵のことではない。富士櫻は、まず小さな体を大きくすることから着手した。それには、方法は一つしかない。とにかく食って食って、食いまくるのだ。

 入門して間もなく、富士櫻は自分に、

「朝晩のちゃんこのたびに、どんぶり飯を必ず7杯以上かき込む」 

 ということをノルマとして課した。食い物を喉元まで詰め込む、という表現があるが、本当にそこまで詰め込むと動けなくなる。動けばせっかく食べたものが噴水のように吹き出してくるからだ。ちゃんこのあと、できるだけそっとその場に横になる、というのが富士櫻が新しく身に付けた食事マナー(!?)だった。

「強くなるには、体を大きくする、というのが一番の早道ですからね。もちろん、ただ食べるだけじゃなく、稽古もやりましたよ。1年後にハワイから高見山(のち関脇)が入ってきたこともあって、負けるものか、とそれこそ、毎日、真っ黒になってね。もっとも、向こうはすぐ上にいってしまいましたが。押し相撲を教えてくれたのは、自分をスカウトしてくれた高砂親方です。この小さな体で廻しを欲しがったらひとたまりもありませんもんね。とにかく入門したときから、押し一本槍。廻しを取ったら、この野郎、とよく叱られたもんです。だから、引退するまで、自分は四つ相撲の稽古はやったことがないんですよ」

 と昭和60年春場所限りで引退、翌61年に中村部屋を興した富士櫻改め中村親方は、暗闇の中で上に這い上がる出口を探して模索した日のことを、懐かしそうに振り返った。

 この、命懸けで食べ、命懸けで稽古したことがやっと功を奏し、入門して4年目に、それまでどんなに食べてもたいして増えなかった体重が、なんと25キロも増えた。十両昇進までには、まだそれから3年の時間が必要だったが、この体重の急増と歩調を合わせるように、番付もようやく幕下に。

 ここは近道のない世界だが、自分で、これだ、と思ったら、死に物狂いでくらいつくことが、成功する最大の秘訣。皮肉なことに、この「スカウトことば」に引っ掛かって、いきなり失意と不安のどん底にたたき込まれたことが、富士櫻がこの小さな体で22年間も踏ん張り、青葉城に抜かれるまで「1543」という史上最多の連続出場記録をつくる、大きなエネルギーになったのだった。(続)

PROFILE
富士櫻栄守◎本名・中澤榮男。昭和23年(1948)2月9日、山梨県甲府市出身。高砂部屋。178cm141kg。昭和38年春場所初土俵、45年初場所新十両、46年秋場所新入幕。幕内通算73場所、502勝582敗11休、殊勲賞2回、敢闘賞3回、技能賞3回。60年春場所引退、年寄中村を襲名後、61年5月に分家独立、平成24年12月まで中村部屋を経営した。25年2月に停年退職。

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