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2018-06-08

【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・北葉山英俊 編 賜盃を呼んだ無心の境地――双葉山の教えあればこそ[その2]

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

※昭和29年秋場所、序ノ口を飛び越して序二段で全勝を果たした若き日の北葉山
写真:月刊相撲

【前回のあらすじ】力士に憧れ、双葉山に憧れていた昭和29年早春、家出同然に北海道室蘭市を飛び出し、函館から青函連絡船に乗った北葉山青年。身震いしながら、同じ室蘭出身の双ツ龍を訪ねるため、東京・両国の時津風部屋を目指した――

同郷の兄弟子による入門〝審査〞

 東京に着き、両国の時津風部屋を訪ねた北葉山は、翌日、今度は東京駅に出て、また汽車に乗った。みんな春場所の行われる大阪に行って、部屋は空っぽだったのだ。

 大阪の宿舎に着いたのは、もう夕方だった。疲労と空腹でクタクタになりながらお目当ての双ツ龍を訪ねると、あいにく留守。仕方がないので、玄関脇で待っていると、少し離れた縁側で、身長が202センチの大内山(最高位は大関)や、214センチの不動岩(関脇)らがにぎやかに談笑しているのが見えた。

「みんな、見上げるような大きな体で、しかも、いかにも怖そうな顔つきの人ばっかりなんだよ。もうびっくりしてね。わあ、えらい所に来てしまったなあ、と思わず泣きたくなったよ」

 これが北葉山の長い間、夢見てきた大相撲界の第一印象だった。気が滅入って心細くなっているときだっただけに、余計兄弟子たちの顔が怖そうに見えたのかもしれない。

 しばらくして、頼みの綱の双ツ龍が帰ってきたが、そのつれない態度がまた、北葉山の心を打ちのめした。

 入門するために、室蘭からはるばる出てきたことを話すと、

「よし、わかった。明日、大阪見物をさせてやる。それが終わったら、室蘭に帰れ」

 と、まったく北葉山の意志と違ったことばが返ってきたからだ。そのときの北葉山の身長は5尺6寸1分(およそ170センチ)、体重が21貫300匁(およそ80キロ)と、どちらも新弟子検査に合格するぎりぎり。面構えだけは一人前だったが、どこから見ても、この世界で成功するような器には見えなかった。

 このため、双ツ龍は、「入門して、散々、苦労してから失望するよりも、しない前に断念させた方が本人のためになる」

 と老婆心を働かせたのである。しかし、北葉山としては、このままおめおめと室蘭に帰ったのでは、一体なんのために3年間も爪に火を灯すようにして少しずつ小遣いを貯め、家出までして出てきたのか、わからなくなる。

「大阪見物なんか、いやです。一生懸命頑張りますから、なんとか入門できるようにしてください」

 と、北葉山は双ツ龍の前に座り込んだ。

「そのとき『双ツ龍さんは、自分が大阪見物をとるか、それとも断るか、試している』と思ったんですよ。大阪見物というのも、室蘭から出てきた少年には十分に魅力的でしたからね。でも、ここで、自分が、わかりました、と言って、大阪見物をとったら、負けになる。そう思って、死に物狂いで首を横に振り続けたんです」

 やがて、双ツ龍は、

「しょうがないなあ」

 とつぶやくと、

「オレについて来い」

 とアゴをしゃくって、師匠の時津風親方(元横綱双葉山)のいる奥座敷に連れていった。ようやく入門の口添えをする気になったのだ。

入幕から9場所連続で勝ち越した昭和35年春場所、初三賞となる敢闘賞を受賞。中央は技能賞の北の洋、右端は殊勲賞の柏戸

憧れの人からかけられた生涯忘れられないことば

 体の小さな者は、大きな者と違って、どんなに優れた素質を持っていても、土俵に上がる前にいくつかのテストを受けなくてはいけない。このとき北葉山は、自分がこの室蘭出身の先輩との勝負に勝ち、プロ初白星を挙げたことがわかった。

 それからあとの出来事は、夢うつつだった。双ツ龍にうながされて顔を上げると、目の前にあの憧れの双葉山がいたのだ。

「よろしくお願いします」

 と、北葉山が頭をペコリと下げると時津風親方は小さくうなずきながら、

「あんちゃん、辛抱するんだぞ」

 とまるで小さい子どもをさとすように言った。北葉山には、それがまるで神の声に聞こえた。

「ウチのオヤジ(師匠)は、短いことばなんだけど、実に含蓄のあることばをいろんな節目、節目にポツン、ポツンと言うんですよ。それが、いまではオレたち弟子の大事な財産。この入門のときのことばも、オレにとっては、生涯忘れられないことばになりました。あの辛抱しろ、ということばをかけられたから、オレはどんな辛い稽古でも耐えることができたんです」

 北葉山の初土俵は、2カ月後の昭和29年(1954)5月の夏場所だった。翌秋場所、四股名を、本名の山田から新しく「北葉山」に変えた。「北」は北海道からとり、「葉山」は、もちろん、師匠の双葉山からいただいたものだった。(続く)

PROFILE
北葉山英俊◎本名・山田英俊。昭和10年(1935)5月17日生まれ。北海道室蘭市出身。時津風部屋。173㎝119㎏。昭和29年夏場所初土俵、33年春場所新十両、同年九州場所新入幕。36年夏場所後に大関昇進。38年名古屋場所、悲願の初優勝。幕内通算46場所、396勝273敗21休。優勝1回、殊勲賞1回、敢闘賞2回。41年夏場所限りで引退。年寄枝川として、平成12年(2000)5月に停年を迎えるまで時津風部屋で指導にあたった。22年7月20日死去、享年75歳。

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