今回は米国の自由形短距離の歴史に名を刻む2人のスプリンター、トム・イエーガーとアンソニー・アービンを比較します。
オリンピックに50m自由形が導入されたのは、1988年ソウル大会。初代王者はマット・ビオンディ(米国)でしたが、当時そのビオンディと人気を二分し、最終的に1990年にアメリカで行なわれた、50m自由形のマッチレース・トーナメントにおいて、ビオンディとの直接対決に勝ち、スプリント王の名を欲しいままにしたのが、イエーガーでした。
とにかく、イエーガーは大舞台でのレース前、スタート台後方で落ち着きなく身体を動かしたり深呼吸したりと、集中する際の“イレコミ”が印象的で、さらに勝ったあとの派手なガツポーズは、世界中の水泳ファンを虜にしました。
対するアービンは、2000年シドニー大会、2016年リオ大会の50m自由形で優勝、何と16年越しの2大会オリンピック・チャンピオンとなった、こちらも生粋のスプリンターです。
両者とも、リレーメンバーで100mでの実績があるものの、世界の大舞台では50mでの実績が目立ちます。
そこで、今回は彼らのベストレースであるレース動画を観察し、20年の時を経てスプリンターの何が変わったのか。あるいは普遍的なものは何かを、探ってみたいと思います。
イエーガーの動画は、1990年に行なわれたトーナメント決勝での、ビオンディとのマッチレースのものを選択しました。アービンはもちろん、リオ五輪決勝です。
●参考動画(1990年に行なわれたイエーガー対ビオンディとのマッチレース)
イエーガーのレースは、敗れたビオンディも21秒台で泳ぐという素晴らしいレースでしたが、浮き上がりからゴールタッチまで、彼らのストロークは見事にシンクロしていますので(笑)、その辺も見ていただけたらと思います。
まずスタート。すでにラウディ・ゲインズ(1984年ロサンゼルス五輪100m自由形金メダリスト)がクラウチング・スタートを広めていた時代ですが、ビオンディもイエーガーも、通常のグラブ・スタートです。もちろん、スタート台にはバックプレートはありません。飛び出しの際には、フライト期に大きく背中を反らし、頭を高く上げた後に腰を屈曲させてエビ型をとる「パイクスタート」。これによって、入水時に脚が過剰に進行方向に回転し、入水角度が大きくなるのを防いでいます。入水後はそれほど潜らず、手元の時計ですが2.71秒で頭が水面上に浮上。その際、ビオンディもイエーガーも、一度ヘッドアップするかのように、勢い良く水面をブレイクアウトしていきます。そこから一気にスピードに乗り、50mを泳ぎ切ります。イエーガーのテンポを3ストローク分計測し、1ストローク平均を求めると、スタート直後が1ストローク0.977秒、25m付近が1.020秒、ゴール手前が1.043秒。ストローク数38ストロークでした。
●参考動画(アービンのリオ決勝)こちらは諸事情によりURLを貼り付けてご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=6PAXVy0WViE&index=9&list=PLv4g_Lrh40u8fpB7r3Kf-9yFSfbMukhhQ
一方、アービンの浮き上がりまでの時間は、3.45秒。やはり、水中ではドルフィンキックを用いますので、イエーガーよりもワンテンポおそく水面に出てきます。この辺は、水着の違いによる低抵抗の利点を、現代のスイマーは活かしていますので、アービンもうまい下手はともかく、水中を潜って浮上してくるスタイルをとっています。
アービンがイエーガーと異なるのは、浮き上がりから一気にスピードアップ…というわけではなく、アービンは0.967秒、1.013秒のテンポで中盤を乗り切るところまではそう変わりませんが、終盤は0.993と、ピッチを上げてきます(図1)。ラスト5m(イエーガーの動画は5ヤード)の局面の速度を、頭部通過からタッチまでの所要時間を数回計測し、平均値を求めて、通過距離から計算して速度を求めてみますと、イエーガーは秒速2.167m/秒だったのに対し、アービンは2.283m/秒。
アービンが競り合いに強い理由は、恐らく50mの中での力の配分が、これ以上になく完璧にできているということなのではないかと考えられます。従って、90年代は浮き上がりから高速に乗り、そこからどれだけ我慢するかが重要だったのに対し、現代では、後半もう一度ピッチ(ギア)を上げて、速度を保つような泳ぎ方になっていると考えられます。
表1 二人の頭の浮き上がり時間(ブレイクアウト・秒/左の数字)と
ゴールタッチ局面の泳速度(m/秒 右の数字)。
アービン 3.450 2.283
イェーガー 2.710 2.167
2人の泳ぎをよく観察すると、頭の高さに違いが見られます。イエーガー世代は、頭を高くして競艇のボートのように浮きを高くするという発想で、姿勢の指導がなされていました。アービンは頭頂部を正面に向けるような形で、現代のシリコンキャップの低抵抗性を活かしているようにも見えます。
一方、二人に共通するのは、キャッチからフィニッシュまでの加速の高さとその強さ。フィニッシュの際の彼らの手を見ると、二人とも水を押し切った手から、後ろの方へ水が跳ね上がっているのが確認できます。このあたりは、時代が変わってもトップ・スプリンターになるための条件なのかもしれませんね。
でも、よく考えてみてください。
イエーガーの時代は、水着はブーメランタイプ。現代の水着は脚部を覆い、低抵抗を実現するだけでなく、脚の動きや姿勢をサポートする機能付きです。ですから、物理的な抵抗や脚のパワーだけを考えると、現代のスイマーの方が、大きなアドバンテージがありますよね。加えてイエーガーの時代は、スタート台にバックプレートはありません。バックプレートがつくことで、飛び出し時の水平方向への移動速度は高くなり、15m通過時間は短縮されるという研究結果もあります。
そう考えると、90年当時のイエーガーの21秒81は、いったい今の条件ならどのくらい出せるんだろう? となりますよね。
イエーガーは、飛び込んだ後の浮力を利用して水面上に飛び出すことで、高い速度を得ていましたが、今はスタート時の水平速度が高くて入水スピードが高いことや、低抵抗水着を着たりしていますので、浮上時にそれほどエネルギーを使わずとも、トップスイマーであれば誰でも高い速度を得られます。この局面で高い速度を得るという50mで勝つための条件は、今も昔も変わりませんが、今の方がそれほど力を使わずとも、高い速度が得られるのではないかと思います。そのことが、アービンの後半のピッチやラストの泳速度に反映されているとも考えられるでしょう。
ファンタジー(空想)かもしれませんが、現代の条件で、イエーガー、ビオンディ、アービンやフローレンス・マナドウ(フランス)を競わせてみたいものですね。
文◎野口智博(日本大学文理学部教授)
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