あの大型柏鵬時代に、小さい体ながら独特の技能相撲で割って入り、トレードマークのモミアゲでも人気のあった時津風部屋の闘志の大関・北葉山は、我が北海道室蘭市の出身。

※写真上=親方のご実家で撮らせていただいた一枚。あのモミアゲも白く、精悍だった表情も穏やかになっていましたが、勝負のお話になるとやはり闘志があふれておられました
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

闘魂大関北葉山

 その相撲人生の中で最も光り輝くのは、何といっても昭和38(1963)年名古屋場所の初優勝でしょう。

 空調設備も整っていなかった金山体育館の昔とて、力士はたちは南洋場所といわれた名古屋場所の体調管理には心を砕いていた。当時大鵬は夏場所まで史上最高の6連覇を成し遂げていたころ。その中で兄弟弟子の青ノ里が大鵬の連勝を許さず30でつぶしてくれたことも手伝って、北葉山は優勝戦線をひた走りました。

 私はそのとき小学校5年生でしたが、その時の興奮をいまだに持ち続けています。

 7月7日の七夕の日、家族で洞爺湖の湖水祭りに行った帰りのこと。夕食に寄ったレストランではテレビの相撲中継を流していました。まだ白黒テレビが一般的で、NHKだけでなく民放も加わって一斉に相撲中継に精を出していた時代でした。

13日まで一人全勝だった北葉山が、14日目に栃光、千秋楽2敗で追ってきた佐田乃山に敗れ、とうとう二人の決定戦に――。思わず悲鳴をあげたのは私ばかりでなく店内のお客さんも同じでした。大写しになる佐田乃山とアナウンサーの声。

 しかし大一番は、北葉山が一気に押し出してしっかりものにしました。「北葉山、悲願の初優勝!」というアナウンサーの絶叫に呼応して、遠く離れた北海道の地にも金山体育館にも劣らぬ歓声がわき上がりました。レストランでのメニューは全く記憶にはありませんが、その喧噪の情景は今も私の心に色鮮やかに残っています。

 その翌月に行われた室蘭巡業はもちろん大騒ぎ。その前日には北葉山関の優勝パレードが行われ、車道も歩道も関係なくなるほど、駅前通りは大勢の熱狂した人々でうずまりました。

30数年ぶり念願の初対面

 その3年後の41年夏場所、北葉山関は引退します。たった二人しかいないあの大横綱大鵬に2ケタ勝っている力士(柏戸=16勝、北葉山=11勝)の一人として。引退後は年寄枝川を襲名し、審判委員、理事などを務めました。平成12年5月15日停年退職。

 停年から2カ月たった平成12(2000)年7月、私と妻は、親方の妹さんのお導きによって、遠景に工場都市室蘭独特の風景がたたずむお兄さまのお宅(親方の生家)にお招きいただきました。

 親しくお話しさせていただく中、「子供のころは……」と語る兄思いのやんちゃな親方の顔は、土俵上で真っ向勝負をしていたテレビの顔とは全く違うものでした。特徴のモミアゲは変わらないものの、上品に白くてダンディ! 勝負師のうれしい月日を感じさせてくれました。

「義姉さんが作ってくれた料理を食べると、ああ、室蘭に帰ってきた気がするんだ」と一生懸命に箸を進める(食欲も旺盛!元気!)笑顔の親方。そんな弟を優しく見守るお兄さんと奥さん……。土俵からはうかがい知れぬ一面を身近に感じさせていただいた、30数年にして叶った、郷土のヒーローとの、感動の連続の初対面でした。

 親方は22年7月20日75歳でお亡くなりになり、この写真は、相撲好きの私の生涯の宝物となりました。

語り部=佐藤 豊 歯科医師(室蘭市在住)

月刊『相撲』平成29年6月号掲載

おすすめ記事

相撲 2020年4月号


This article is a sponsored article by
''.