長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。
【昭和32(1957)年11月、戦後初の本場所となった九州場所は、黄金の廻しを着け世間をアッと言わせた大ベテラン玉乃海が、平幕で劇的な全勝優勝を飾ったことで、様々な場面で引き合いに出される。そこで、令和初の九州場所に当たり、当時の、親近感にあふれた異色のリポートを、覗いてみた。編集部】黄金廻しの由来九州本場所における病後の玉乃海は郷土のファンの声援にこたえて、アレヨアレヨと破竹の連戦連勝ぶり。この奇跡はどこから起こったのであろうか。
“玉の海廻しは黄金の財布色”――九州本場所に破竹の関取が締める褌は黄金色。何と景気のいいことよ!
テレビで、それと分かるマブシイ褌を福岡スポーツ・センターの支度部屋で拝見した。俗にフンドシを締め直すとはこのことであろうか。
この“黄金色廻し”にまつわる伝説――玉乃海は、死のラバウルから奇跡の帰還をして3カ月ばかり大阪の日立造船で働いた。マラリアに傷んだ体も、本土の地を踏んで日一日と癒えてきた。
「ありがたいな、生き残りは……これからは体をより大切にしなければ、多くの戦友にあいすまんな」「そうだとも、あなたの運命はこれから開けるんだもの、大事にして下さいよ」。新しい職場の誰からも好意の目で迎えられるのも根がお相撲さんだからであった。
日立造船から、その後近畿大学の相撲コーチを依頼された。
「玉乃海さんがコーチに来て下さる」「ほう、えらいこっちゃ。よっしゃ!」
物資不足のことながら、学生たちはそれでもプロ力士の胸にぶつかっていった……。
こうした縁から、はしなくも今度の九州本場所に贈られたのが黄金の廻しであった。
“傷病兵生活”6カ月玉乃海には6カ月のブランク(※大関目前から急転直下、重なる病のため連続休場へ……)生活があった。この心境を彼は、“傷病兵のようだった”と述懐している。
今場所は幕内14枚目まで落ちに落ちた。このまま休んでいたら、初場所は「十両」に転落したかもしれない。
そこを、気を長く持つ……精神的な修養が一枚一枚、皮をはぐように関取の内臓に巣食う悪魔を退治してくれた。“ガダルカナルの奇跡”(※応召された南方で命拾い)は、この傷病兵・福住(玉乃海の本名)に、もう一度奇跡をもたらしたのだ。
(中略)
大島親方の予想まさに破竹の勢いで中日で給金を直した玉乃海に対してこりゃ大穴が出るぞといち早く叫んだのが立浪部屋の大島親方(元幕内若浪)。
――ズバリそのもので行けば、この場所は玉関の“優勝”を買うね。競馬の予想でもワシはアナねらいだから、そうだろう、他の馬が本命を包んで競り合っているときに外枠から出てきたのが今度の玉関だよ。そしてアレヨアレヨという間に、逃げ切ってしまう。星のつぶし合い(栃錦・若乃花ら三役以上)をしている間に、このままいけば平幕優勝玉乃海となりそうだよ」
大島親方は、こんな予想を早くも中日に立てたものである。
(尾形圭史=漫画家、本誌レポーター)
(『相撲』昭和32年12月号記事再録)
月刊『相撲』令和元年12月号掲載