2007年夏の甲子園で佐賀北高を全国制覇に導いた百﨑敏克氏が17年夏の大会を最後に、監督を勇退。その指導人生を振り返った。
佐賀東高に異動したのが1988年、32歳の時だ。佐賀市内と立地に恵まれ、新設された体育コースもあり、選手の質量ともに佐賀農芸高時代とは比較にならないほど充実していた。「ここでなら勝てる」。そんな気持ちを持っていた。
しかし、4年が過ぎても結果が伴わない。夏の佐賀大会では3回戦まで進んだのが最高成績だった。転機が訪れたのは91年のこと。86年夏に唐津西高を甲子園初出場に導いた実績を持つ吉丸信(現・北陵高監督)が佐賀東に赴任。夏の初戦敗退(対鹿島実、2対4)を契機に監督交代となり、部長職に就く。すると、翌92年夏、佐賀大会をスルスルと勝ち上がり、甲子園初出場を果たすのだ。
「部長としてですが、初めて甲子園を経験して、それは大きな財産になったことは確かですが、一方で指導力の差を痛感する出来事であったことも確かです。失意が大きく、正直、野球から離れたいという気持ちを持っていました」
94年、38歳のときに神埼高に異動。百﨑の気持ちは叶わず、「部員は十数人」という環境でのチームで、あらためて、監督を務めることになる。
佐賀市と鳥栖市の中間に位置する神埼市。1990年代は佐賀市内にある伝統の佐賀商高に加え、佐賀学園高、龍谷高の私学が台頭、また鳥栖商高も力を伸ばしており、神埼市内の有力選手は両市の学校に流出する状況にあった。
「部員は十数人。神埼高に進んでくれた野球経験者も野球部が弱いことが分かっているから、違うスポーツを選択します。しかし、数少ない選手たちは、野球が本当に好きで集まっているような素直なところがありました。決して野球がうまくない選手たちでしたが、私も指導力のなさを実感していたところもあり、波長が合ったのでしょう。小さなプレーをコツコツと究めるところから始めていきました」
佐賀農芸高時代に「選手がいない」ことを言い訳にしていた百﨑が、佐賀東高時代には選手はそろっていても勝てないジレンマに陥った。それは指導の根本を見直す機会であったに違いない。
「佐賀東のとき、監督を退いて傍目から見ていた吉丸先生の指導にも大きな影響を受けました。甲子園という大きな目標を掲げていても、大事なのはできることを一つひとつ積み上げていくことなんです。そして試合での監督の務めは普段やっていることを100パーセント出し切らせることだと理解しました」
そして神埼3年目の96年にベスト4に進出。徐々に選手が地元にとどまるようになり、2001年には春夏連続出場を果たす。「地元の生徒だけで、夏には1勝を挙げることができました(2回戦、対城東、4対2)。正直、達成感がありました」
しかし、親交が深かった大分の日田林工高や藤蔭高で監督を務めた原田博文の一言が百﨑の胸を突き刺す。
「甲子園後にお会いしたときのことです。『一つ勝って満足していたみたいだけど、あのチームなら優勝できたんじゃないか』と言われました」
周囲が上出来の評価を下し、自身も大きな成果を挙げたと納得していた中での言葉。刺さった棘のように、百﨑の胸を突くようになる。
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