去る5月19日、3ヵ月ぶりに訪れた東京・後楽園ホール。日本フェザー級王者の丸田陽七太(森岡、24歳)は5階正面、南側入口の上にズラリと並んだパネル写真を見上げた。日本から世界まで、現役のチャンピオンたちがベルトを腰に巻き、あるいは肩から掛け、思い思いにポーズを取っている。ここに写真を飾られることは、プロボクサーの目標でもあり、誇りでもあるだろう。
文=船橋 真二郎
母の13年越しの夢 今年2月11日、丸田は兵庫県川西市の森岡ジムから後楽園ホールに乗り込み、2連続防衛中の当時のチャンピオン、佐川遼(三迫)を7ラウンドTKOで下して王座を奪取。直後のリング上では感極まり、涙をこらえられなかったが、丸田自身は「まだ通過点」の思いが強く、日本のベルトを肩から提げた写真を見ても特別な感情は湧いてこなかったという。
「嬉しかったのは親が喜んでくれたことです。その姿を見て、よかったなって思いました」
「実際に写真を見て、ただ嬉しいっていうだけじゃなかったですよ」と感慨もひとしおだったのは、ジムのマネージャーでもある母・丸田和美さんだった。
「U-15の全国大会で初めて来た日から、『ここに必ず“丸田陽七太”の写真を飾る』って。それから後楽園ホールに来て、毎回、入口の写真を見るたびに念じていましたから」
丸田が小学5年のときの「第1回U-15ボクシング全国大会」(現・ジュニアチャンピオンズリーグ全国大会)で優勝してから13年。母がずっとイメージしてきた夢のひとつが叶えられたのである。
U-15世代の大会普及とともに2012年4月、第1回全国幼年ボクシング大会で優勝した丸田 プロが主導して、初の本格的な小・中学生の全国大会が開催されたのは2008年8月のこと。丸田も出場した第1回大会の中学生の部・優秀選手3名のうちのひとりに選ばれたのが、当時中学3年、先頃、アメリカ・ラスベガスで防衛を果たしたWBAスーパー・IBF世界バンタム級統一王者の井上尚弥(大橋)だった。
この大会経験者から、元世界3階級制覇王者の田中恒成(畑中)、井上の弟で元WBC世界バンタム級暫定王者の井上拓真(大橋)、昨年11月にWBO世界フライ級王者となった中谷潤人(M.T)と、すでに4人の世界チャンピオンが誕生していることになる。また、田中の兄で東京五輪フライ級銅メダリストの田中亮明(岐阜・中京学院大学中京高教諭)、今年4月にポーランドで行われた世界ユース選手権ライト級で優勝を果たし、2016年にフライ級を制した兄・堤駿斗(東洋大3年、当時習志野高2年)に続いて史上2人目の快挙を成し遂げた堤麗斗(東洋大1年)の堤兄弟など、この年代からの育成、強化が大きな礎となり、プロ、アマチュアを問わずトップ選手を多数輩出しているのである。
もう何年も前、初めてキッズの大会に参加した頃を振り返ってくれた井上尚弥の言葉が思い出される。
「こんなにボクシングをやっている同年代の子たちがいるんだと知って、それがいちばん嬉しかったですよ」
まだ、いくつかの独自の大会が別々に開かれていたキッズボクシングの黎明期。その規模はずっと小さかったはずだが、それでも“仲間”の存在が励みになったという。
そして、キッズ、ジュニアの大会の整備、普及とともに育ってきた象徴的存在のひとりが丸田だった。
当時から激戦区と言われていた西日本の予選を勝ち抜き、U-15全国大会に中学3年まで5年連続出場。小学6年のときは小学生の部・優秀選手にも選出され、2年連続初回RSC勝ちで連覇を果たした。中学1年のときには2学年上の田中恒成に阻まれ、次の年も優勝を逃したものの、中学最後の年にはアマチュア(日本ボクシング連盟)が主催した「第1回全国幼年ボクシング大会」(全日本アンダージュニア大会の前身)とダブル制覇を達成した。
大阪・関大北陽高入学直後の2013年4月には、カザフスタンで開催された15、16歳を対象としたアジアジュニア選手権に出場して銅メダル。これも小学生の頃から積み重ねてきた実戦経験の賜物と言えるだろう。
丸田がボクシングを始めたのは6歳、まだ幼稚園の年長の頃だった。その少年時代は“ボクシングの申し子”と呼びたくなるようなエピソードに彩られている。
メキシコ五輪銅メダリストとの原風景森岡栄治さんのミットめがけてパンチを打ちこむ6歳の丸田(写真提供/森岡ジム) ボクサー・丸田陽七太の原風景には、日本ボクシング史上3人目のオリンピックメダリストがいる。1968年のメキシコ五輪バンタム級で銅メダルを獲得した先代・森岡栄治会長である。
先代がジムのリングの縁に腰を下ろし、素手で差し出した両手に向かって一心にパンチを打ち込んだ。教えられるまま、アッパーを右、左、右、左、右――。
「しんどいんか?」
「しんどくありません!」
ときに言葉をかわし合い、競い合うように一発、一発。付き添っていた和美さんが「いつまでやるのか……」とやきもきするぐらい延々と。今でも丸田の記憶に残っているという。
「『アッパーが大事やぞ』って、栄治会長の手に。すごく楽しくて、もう、ずーっと。今、思い出しても、だいぶ長かったような(笑)」
両親も家族の誰もボクシングに関心のなかった家庭に育った6歳の男の子にとって、このメキシコ五輪銅メダリストとの邂逅が、まさに初めてのボクシングとの出会いだった。
2004年1月。母とジムを訪れたのはまったくの偶然だった。それまで姉と一緒にスイミングスクールに通い、バタフライまで泳げるようになっていたが、「この子は、ちょっと水泳は違うかな」と感じていた和美さんと別の習い事を探していた時期だった。その日も友だちが出ている少林寺拳法の大会に誘われ、2人で見学にでかけていたのだという。が、少しも興味を示さず、会場の体育館内を走り回り、早々に退散した帰り道だった。
ボクシングジムの看板に気づき、ふと和美さんは車を止めた。明かりがついている。「見てみる?」。尋ねると「見る」とうなずいた。飛び込みで見学していた親子に「ちょっと、動いてみるか」と声をかけたのが先代だったという。
すっかりボクシングのとりこになった男の子は「習う!」と目を輝かせた。困ったのは先代の長男、森岡和則・現会長である。当時のジムでは小学生以下の子どもを受け入れていなかった。
それでも「帰りたくない!」「まだ練習するー!」と泣き叫び、「“体験”だけなら」と森岡会長が根負けする形になった。翌週、再びやってきた男の子は先代とのマンツーマンの練習に続き、ひとりでも夢中になってサンドバッグを叩き続けた。見る目が変わった。
「子どもは遊び回って、言ったことをやってくれへん、とか、そういうイメージがあった時代だったんですけど、一生懸命にパンチを打つし、真剣に練習する。『この子は違うな』と思って、週1回、曜日を決めて受け入れることにしたんです」
入会後、初めての練習を終えた親子が帰って、しばらくしてからだった。ジムの電話が鳴った。和美さんだった。「またジムに行きたいと言って聞かない」のだと困りきった様子の背後から大泣きする声が聞こえてくる。最初は断っていた森岡会長も「今日だけ、もう1回連れておいで」と押し切られてしまった。「週1回だから、また来ました!」。ケロリとジムにやってきた男の子は、また大喜びで練習に打ち込んだ。
それだけでは終わらない。
「週1回というのは、1回ということやからな」。優しく言って聞かせる森岡会長に「練習じゃない日も“見学”に来ていいですか」。断る理由などなかった。次の日から練習日以外の日も毎日のようにジムにやってくるようになる。週1回だったはずの練習が2回になり、やがて3回になり、1年が経つ頃には毎日になっていた。
“熱情”と表現したくなるような丸田の行動が、大人たちを動かしたのである。では、ボクシングの何が幼い心に触れたのだろうか。
「初めてジムに入ったときの景色を今も覚えていて、小っさいながらも『ここでやる』っていう直感みたいなものが入ってきたんやと思うんですけど。今、思うのは、僕がボクシングを続けてこられたのは森岡ジムだったから。そのときから何か惹きつけられる空気があったんやと思うんです」
和美さんは、こう言い換えた。
「いちばんは“好き”ですね。ボクシングも、森岡ジムも、それから栄治会長のことも、和則会長のことも。それは、今でも変わりません」
“森岡栄治の最後の弟子”。丸田はそう呼ばれることがある。森岡ジムが現在の兵庫県川西市のお隣、大阪府池田市から移転してきたのは2002年11月。親子がジムの前を通りかかった1年ほど前のことだった。どうしても「運命的」と捉えたくなるのは、出会いから10ヵ月後の2004年11月、闘病中だった先代が58歳の若さで逝ってしまうからである。
森岡栄治さんと少年が過ごした時間は、だから1年にも満たない。それでも丸田の歩みは、確かに恩師との約束とともにあった。(後編に続く)
メキシコ五輪銅メダル“森岡栄治の最後の弟子” 丸田陽七太が歩んできた道 《後編》
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