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2021-10-15

白鵬は誰よりも相撲を愛していた――入門時から見つめ続けた同郷のカメラマンが語る

名古屋場所千秋楽、照ノ富士との決戦を前に土俵に額をつける白鵬

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白鵬が10月1日に引退を表明、数々の大記録を残し、現役生活に別れを告げた。白鵬がアニキと慕うカメラマンがいる。橋田ダワーは、モンゴル出身で日本人女性と結婚し、日本に帰化した。この点で、白鵬と一緒だ。白鵬が入門したときから今日まで、ずっと見つめ続けてきたダワーが、その白鵬への思いを綴った。(「横綱白鵬引退記念号・相撲11月号増刊」より)

父との約束を守った偉大な英雄の息子

7月18日、名城公園に隣接するドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)では、2年ぶりに開催された大相撲名古屋場所が千秋楽を迎えていた。

新型コロナ対策で入場者は定員の半分に制限されていたが、満員に近い状態でほぼ埋まっていた。しかし、暑さを吹き飛ばすようないつもの声援はなく、静かだ。館内は湿気と暑さが滞り、身体に重くのしかかる。土俵上に三役呼出しの次郎。千秋楽結びの一番の対戦を呼び上げ、前に伸ばした右手の扇子が、館内に静かに風を送ったかのように空気が動き、客席から拍手が響き始めた。

名古屋場所千秋楽、照ノ富士との決戦を前に土俵に額をつける白鵬
名古屋場所千秋楽、照ノ富士との決戦を前に土俵に額をつける白鵬

6場所連続休場明けの横綱白鵬が東土俵下から立ち上がる。そして土俵に上がる前に、赤房下あたりにしゃがみ、土俵を抱くような姿勢で両手を土俵につけ、目を閉じて数秒間、額を土俵に合わせた。この所作は、モンゴルでは大切なものと別れるときや、神々に敬意を払う、また感謝の気持ちを表す、別れと許しを請うなどの意味をもつ。その白鵬を見て、「ああ、この一番は特別だ。初土俵を踏んでから20年の相撲人生に幕をおろす、現役最後の取り組みになるのだ」という思いが駆け抜け、同時に涙がとめどなくあふれ、レンズ越しの白鵬の姿がかすんだ。一方、西土俵下から上がる大関照ノ富士は天井を見上げ、立ち上がった。全勝同士、同郷同士の一番。

照ノ富士が大相撲に入門するにあたり、白鵬の父である故ムンフバト氏の力添えがあったことを私は知っている。ムンフバト氏はモンゴル人初のオリンピックメダリストであり、モンゴルブフ(相撲)最高位アワラガ(横綱)の地位にある大横綱。当然、照ノ富士としては、全勝で優勝を飾り、横綱に昇進するのが恩返しだと考えるだろう。横綱にも意地がある。制限時間いっぱい。声は出せないため、拍手で会場が沸く。

白鵬が右で顔面を激しくカチ上げ、ひるまず踏み込んだ照ノ富士が左前廻しをつかむとすぐに切り、右、左、左と張る。右四つに組み止め、左上手投げ。廻しが切れると左腕を両手で抱え、小手投げを連発。横綱らしい圧巻の相撲で勝利を手にした。ヒジ、ヒザのケガを抱えながらのこの名古屋場所。身体的にも精神的にもギリギリのところで一番一番を取り切り、限界を超えて臨んだ最後の大一番。勝利が決まった瞬間、すべてを出し切った白鵬の魂の雄叫びを聞いた。

白鵬には、亡き父と交わした約束があった。その約束とは、7年前にさかのぼる。第32回夏季五輪大会の開催都市が東京に決定した翌年の平成26年夏場所、白鵬は29回目の優勝を両親の観戦するなか決めた。場所後に親子対談を申し込んだが、白鵬は対談には消極的で「父に聞いてOKなら」という返事。白鵬の母タミル夫人や姉バットゲレルさんを説得し、ムンフバト氏に対談を申し込んだが、最初は「対談なんて、とんでもない」という返事だった。それでも、交渉と説明を重ね、やっと対談が実現した。場所は全日本レスリング大会開催の代々木第二体育館。運よく父の日でもある6月15日だった。

実はこのとき、ムンフバト氏は体調がすぐれず、検査のために来日していた。対談の中で「2020年東京五輪まで、私は現役続けられるように努力するので、お父さんも体を大事にして、2人でオリンピック観戦しましょう」と約束したのだ。モンゴル国が初めてオリンピックに参加したのは昭和39年開幕の第18回夏季五輪競技大会。つまり東京オリンピックだ。12人の選手団の1人がムンフバト氏で、レスリング種目の代表選手だった。しかし、記念すべきこの土地で、親子で五輪観戦という願いは叶わなかった。平成30年4月9日、肝臓病のため、ウランバートルの自宅で逝去したためだ。76歳だった。訃報を受けた白鵬は春巡業に参加していたが、帰国を許され、家族とともに葬儀に参列した。私も同行し、ご冥福をお祈りした。最愛の父との別れから3年。父と交わした約束のオリンピックは1年延期となったが、約束どおり白鵬は現役で努力し続け、五輪開催直前の名古屋場所で全勝し、45回目の優勝を果たした。

平成26年6月15日、父ムンフバトさんとの対談が実現し喜ぶ白鵬
平成26年6月15日、父ムンフバトさんとの対談が実現し喜ぶ白鵬

誰よりも相撲を愛した白鵬。人と話しが好きで表裏のない性格だった

20年前の6月、取材で訪れた相撲教習所では、真ん中の最前列に、白鵬と安馬(のちの日馬富士)が肩を並べて座っていた。2人とも身体が細く、髪も短い。初土俵を踏んだばかりだった。2人に近づき、モンゴル語で挨拶すると、顔には驚きの表情が浮かぶ。お互い初対面。「出版社に勤めているダワーだ」と自己紹介した。机に開いてあるノートをのぞくと、安馬のノートには鉛筆で馬の絵があった。日本での生活について聞くと、教習所では朝赤龍関(現高砂親方)、旭天山さん(当時の大島部屋幕下力士)が通訳してくれているので、言葉は問題ないとのこと。白鵬は、「ビャンバー(安馬のこと)はいつも動物の絵ばかり描いています」とニコニコと暴露していた。このとき、教習所にはモンゴル人の少年たちが15〜16人いた。世話役の朝赤龍、旭天山に聞くと、「みんな入門したばかり。将来誰が強くなるのかは、誰にもわからない。期待はしたいですね」と話していた。帰り道、同行取材した同僚に、「白鵬は将来、強い力士になりそうな気がする」と話したことをよく覚えている。同僚は「そうかな?」といぶかしんでいたのだが。

平成13年6月、相撲教習所で旭天山と習字の練習をする白鵬。カメラを向けるとニッコリ
平成13年6月、相撲教習所で旭天山と習字の練習をする白鵬。カメラを向けるとニッコリ

 白鵬はその後、猛スピードで大関の座まで登ってきた。大関時代を含め、彼の帰郷には3回同行取材させていただいた。白鵬は番付や知名度が上がっても、初めて会った少年の頃のままで接してくれる。地方場所や巡業では、こちらの体調を気遣ってくれたり、モンゴル国民族の祭典日や旧正月には食事を用意しているからいらっしゃいと招かれたりした。話し好きで、巡業中は歴史や社会、相撲の歴史などについてよく話していた。誰よりも相撲を愛し、人一倍努力し、人と話が大好きで、本当に裏表のない素晴らしい性格の人物だと私は確信している。

 45回目の優勝を果たした後、白鵬の兄弟子である龍皇(元幕内)のサンチルボルドから聞いたのだが、白鵬は名古屋場所中、炎症でヒザに水がたまり、3回くらい注射器で抜いたそうだ。そのヒザが、朝起きたときは動きにくくなるため、夜は必ず布団の中で太いチューブを足裏にひっかけ、手で引っ張って足を上下に動かしたり曲げ伸ばしをしたりして、ケアを怠らなかったとのこと。白鵬は本土俵に上がったときには優勝を目指し、最後までやり遂げる。調子がよくないときには、前もって休場するか、序盤の3日目以内に休場を決めることが多い。これについて本人は、「中途半端な状態で相撲を取るのは対戦相手に失礼だ」と話していたことがある。

平成15年の暮れ、初場所の番付発表日に新十両を決めた白鵬と言葉を交わす筆者
平成15年の暮れ、初場所の番付発表日に新十両を決めた白鵬と言葉を交わす筆者

「心・技・体」を貫いた証は彼が打ち立てた幕内最高優勝数、通算勝星、横綱在位、年間最多勝、連続優勝、全勝優勝数の記録となっている。14年間、横綱を張った重責は計りしれない。しばらくはゆっくり休み、第二の人生に向けて全てを整え、次は親方としての活躍を楽しみにしている。モンゴルに「藻のある水場には魚が集まる。良い性格の人には人間が群がる」という諺がある。白鵬を見ていると、本当にその言葉どおりだと感じる。愛にあふれた指導で後進を育て、これからも相撲界を盛り上げていってくれることだろう。(文/橋田ダワー)

本コラムが収録された『横綱白鵬引退記念号』。21年間の足跡を1年ごとに振り返った写真グラフ、至高の十番勝負、相撲の技術的変遷などを豊富な写真で振り返り、全星取表、記録を掲載。B2サイズの両面ポスター、原寸大手形なども付いている完全永久保存版だ
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