
ジャパニーズボディ開闢の主人公は、もちろん、この人である。大橋秀行。井上尚弥をガイダンスする大橋ジムの会長、そしてヨネクラジムに所属した現役時代はWBC・WBA世界ミニマム級チャンピオンに君臨した。絶品のカウンターパンチャーであるとともに、その左ボディフックは日本のボクサーとして初めて世界最高レベルに到達させた人物だ。
今からちょうど30年前になるが、中年の域に達したボクシングファンならば、あの一戦のことは決して忘れていない。1980年代後半、日本のボクシングは徹底したスランプにあった。世界タイトル挑戦はなんと21連敗にまで達していた。そのなかには惜敗、不運もあったけど、うっ憤ばかりが暈を増していく。そんな苦々しい思いを、一気に振り払ってくれたのが、大橋だった。
1990年2月7日、後楽園ホール。WBC世界ミニマム級チャンピオン、崔漸煥(韓国)から2度のダウンを奪い、9回2分11秒でKOした。しかも、倒したのはいずれも、見るも鮮やかな左ボディフックだった。忘れかけていた日本人世界王者誕生に、絶叫にあふれた会場はむろん、日本中が沸き返った。そして、大橋のボディブローは語り草になる。
肝臓を狙うブローの凄味に、大橋が初めて出会うのは1979年、中学2年生になってすぐだった。当時通っていた協栄河合ジムのエース、サウスポーのフェザー級、吉田秀三と対戦するためにメキシコの世界ランカー、ファン・アントニオ・ロペスが来日した。中堅強豪の域を出ないロペスだが、わき腹を狙う左フックがずば抜けてうまかった。いや、打ち込むパンチの大半はこのパンチ。あとは、そのサンデーパンチへの行程を作る見せかけに過ぎなかった。ロペスの練習をジムの片隅から見ていた大橋少年は、ただ、ただ、「かっこいいな。すごいな」と思っていたという。そのロペスは本番の試合でも、徹底して左ボディブローを狙い、吉田をKOに打ち取っている。
憧れに従順なのは、少年の常である。大橋はこのパンチの習得に没頭する。左ボディの真髄にもっと近づくのは1年後。日本ランカーだった兄・克行から、詳細なテキストがもたらされた。克行は世界戦のために来日したWBC世界バンタム級チャンピオンのルペ・ピントール(メキシコ)のスパーリングパートナーに起用された。そして、やはりメキシカンボディの使い手だったピントールのレフトをしたたたか腹に打ち込まれたという。兄の話を熱心に聞きながら、大橋は自分流を開発していく。そうやって作り上げたパンチは、ほとんど秘技に近い。
「掌を上に向けて横向きに打ち込むんですよ。相手はブロックしてくるから。そうやってひじの下をすり抜けさせ、当たる瞬間に手首で引き込むようにスナップを効かせます」
高速自在に飛び回るツバメのように、拳を翻して、ボディ随一の急所を狙い打った。
「レバーに当たったらそれが一番だけど、当たらなくてもかまわない。わきの下、ここの肋骨をたたくと、ほんとうはものすごく効くんですよ」
中学生にして目覚めた最大の得意は、その後、長く封印される。ボクシングの名門だった横浜高校に進むと、いきなり禁じ手となった。アマチュアボクシングではストレート系がポイントになりやすかったからだ。ボディパンチを使わなかったことが、大橋のボクシングの幅を大きく広げたのは間違いない。ただし、禁じられた恋こそ燃え上がる。ひそかに左ボディに磨きをかけていった。『150年にひとりの天才』としてプロ入りしたときには、秘打・飛燕の左フックはいきなり猛威を振るう。「実はね。この左ボディ、けっこう難しいんですよ。力をどう入れるか。なかなかできないんじゃないですか」
大橋は腕相撲がずば抜けて強かった。ヨネクラジムには重量級の猛者たちがたくさんいたが、だれにも負けたことがない。腕相撲の強さを生むのは手首の力、そして内側にひく筋肉。ボクシングだから打つだけではない。引いて、手首を返す。打つ力だけでなく、力の方向性の表裏があってこそ、最強のパンチは生まれる。なんと奥深いことか。
文・写真◎宮崎正博
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