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2020-04-16

【ボクシング】究極スターの履歴書 アルトゥール・ベテルビエフ 試練の波を乗り越えてきたチェチェンのアイアン・ナックル

WBC・IBF統一世界ライトヘビー級チャンピオン、アルトゥール・ベテルビエフ(ロシア)の評価は二分する。ただの武骨なパンチャーとする説と、分厚い基本で塗りかためられたとする学派と。それは見る者の評価に任せる。ただ、アマチュア時代、5年間も無敵のライトヘビー級として君臨してきた事実を忘れてはならない。さらに過酷な運命に生き抜く民族の誇りと、信じる神への真摯な献身もまた、この男の真実であるのも、承知していてほしい。

※ボクシング・マガジン2020年3月号に掲載された記事です。

文=宮崎正博
text by Masahiro Miyazaki

写真上=今年2月、15連続KO勝ちで2団体の統一王者となった
(Photo:Mickey Williams/Top Rank)

科学によって裏づけされた剛腕

 ボクシングをよく知る人に、「今、世界で最も危険なファイターは?」と問えば、少なくとも最初の5番目のうちに、ロシア国籍のチェチェン人の名前を上げるに違いない。
 35歳のWBC・IBF世界ライトヘビー級チャンピオンは、プロフェッショナルとして戦った15人の対戦者をすべてノックアウトしてきた。その戦績ももちろんながら、どこまでも太く、たくましい筋肉から固い拳骨をたたきつけるさまは、そのまま『戦いの獣神』にさえ見える。
 ただ、忘れてはならない。ベテルビエフが演じてきたKO劇は、さまざまな行程をたどって、その完成形を生み出してきたことを、だ。狙いすました一撃のパンチでの鮮やかなワンパンチフィニッシュもあり、微妙な間合いを作ってのコンビネーションアタックでなぎ倒したことも、そしてイメージそのままに激しいプレスで対戦者の体力を削りに削って地獄への竪穴に押し込むような結末もあった。
 そのすべてに通底しているのは、ボクシング技術という科学だ。かつてアマチュアボクシング最強の名声を独り占めしたロシア・ナショナルチームに10年間も所属し、徹して戦いの『基本』と『応用』を教え込まれた。ロシアを離れ、カナダでプロになって出会ったトレーナーのマーク・ラムジーはカナダのアマチュアナショナルチームのチーフコーチだった。フィジカル・コンディショニング・コーチ、アンドレ・クルーザはポーランド出身で世界中で優れた重量挙げの選手を育て上げた。彼
らがそれこそ、はちまきを頭に巻いて、ベテルビエフを鍛え上げてきたのは、その才能にとことんほれ込んだからだ。いつか、ラムジーがこんな告白をしている。「アルトゥールがモントリオールのジムに初めてきたとき、ひと目ですごいやつだってわかったよ。ボクシングコーチなら、世界中のだれもが、こんな選手を手がけたいと思うんじゃないのかな。リングの上でまるでアニマルだ。そしてジムでは、きわめて従順な学生になる。テクニックはもちろん、勝つためのあらゆる手法を学びたがる。すばらしいね」

五輪メダルこそないが、アマチュア時代は無敵の倒し屋として知られた
(Photo:Getty Images)

父親の死を乗り越えて

 厳しい少年時代を送った。その原因は何よりも、ベテルビエフがチェチェン人だということに始ま
る。
 先史時代から、ヨーロッパとアジアを切り分けるウラル山脈南西部に住んでいたチェチェン人は誇り高く、勇敢で、また独立心に富んでいる。さらに民族の大多数は16世紀以降に浸透したイスラム教の敬虔な信徒であり、アラーの教えに基づく文化こそが人生の真実だと考える。だから、シベリア方面への東征をほぼ完遂した帝政ロシアが、18世紀に続いて南下してきたころ、激しく抗った歴史もある。1991年にソビエト連邦の社会主義体制が崩壊した後、分離独立を目指すチェチェンは武力をもって、大国ロシアに戦いを挑んだ。
 チェチェンの隣国タグステンのハサヴユルトに生まれ育ったベテルビエフも、もちろんその家族とともにムスリムであり、チェチェンの誇りを忘れていない。地元では有名なレスリング一家だったベテルビエフ家へも、風当たりは強かった。「チェチェン戦争が始まって、いよいよひどい扱いをされたんだ」
 街を歩いているだけで、同世代の子供たちからケンカを吹っ掛けられる。ベテルビエフの4人の兄は、末の弟の身の安全をはかるためにボクシングジムに連れていく。9歳のときだった。やがて本気でこの競技に取り組むようになる。そのころからアイドルは変わらない。一番がモハメド・アリ。2番目がマイク・タイソンだという。
 当時からオリンピック金メダルが目標だったのだが、学校の勉強もよくできたから、将来、どの方向に行くのか迷っていた。家は貧しかった。看護師だった母が栄養学を学び直して、懸命に手助けしてくれるのに感謝しつつ、心苦しくもあった。ようやくボクシングに全力を費やすと決意したのは、ロシア代表として国際大会出場が決まったときのことだ。体育協会からユニフォーム代として300ドルの請求があった。シャトルバスの運転手として、一家を支えてきた父は、その代金を払うために最後の貯金を切り崩してくれた。その父は2001年、交通事故で突然、この世を去った。ベテルビエフは決意した。ボクシングで勝ち続けるしかない。彼がロシア国内のビッグトーナメントで初めて優勝したのは、父の死から5日後のことだった。

栄光と苦難が順繰りにやってくる

 指導者が次々に殺害され、チェチェンの独立運動はだんだんと先鋭化していった。一部はテロリズムに走り、ロシア国内の感情はさらに悪化していく。やがてロシア人ばかりのナショナルチームに選ばれたベテルビエフは、一言も口にしないが、居心地がよかったはずはない。だが、信念を貫いた。
一番に強いボクサーになる、と。
 それだけだ。北京、ロンドンと2度出場したオリンピックでこそ、不運な判定もあってメダルに到達できなかったが、ヨーロッパ選手権2度優勝、世界選手権優勝。2010年には国際ボクシング連盟(AIBA)が選ぶパウンド・フォー・パウンドの1位にもなった。
 2013年、プロに転向する。その強打がたちまち注目を集めたのはいうまでもないが、決して安易な道ではなかった。2013年、ボストンマラソンでチェチェン系の移民が起こした自爆テロで、ロシア国内だけでなく国際的にもチェチェンの印象は悪くなっていた。その後のイスラム国の台頭では、チェチェンからの義勇軍が主力として参戦したとも伝えられた。
 そんなこんなを理由に、強打のベテルビエフは多くの強豪から対戦を忌避されていく。2015年には痛めた肩を手術するために半年もジムから離れた。さらにプロモーションとの契約のもつれから、訴訟沙汰に発展し、実質的に干される形にもなった。
 2017年に念願の世界戦、IBF世界ライトヘビー級王座決定戦としてエンリコ・コーリング(ドイツ)と対戦、やや慎重になりすぎたが、12回に2度倒してTKO勝ちする。「2017年に世界を獲るのが最初からの計画だった。2015年と2016年はそのためのすべてをつぎ込んだんだ」
 喜びの中でベテルビエフは語ったが、道のりはまだ順調とは言えない。係争中のプロモーションとは、最後には「がんばってほしい」「これまでのサポートに感謝している」と笑顔でサヨナラしたが、新しい所属が決まらなかった。名乗り出たマッチルームとも1試合だけで終わる。すでに30台半ばに達し、刻々と行き過ぎる時間が気になる。
 救いの手を差し伸べたのがトップランクだった。アクティブに試合をこなすチャンスを与えてくれた。しかも契約2戦目は、WBC王者オレクサンダー・グボジアク(ウクライナ)との統一戦だ。技巧的な強打者を消耗戦に持ち込み、手荒に見えても、計算高い試合運びで最後はKOに打ち取った。統一王者となったことで、ベテルビエフの評価はまた高まった。

グボジアクを消耗させ、最後はねじ伏せて統一王者に
(Photo:Mickey Williams/Top Rank)

 そのがっちりした体躯からクルーザー級への転向を勧められたこともあるが、答えは「その気はない」の一言。「私はナチュラルなライトヘビー級。このクラスで4団体統一を果たすのがただ一つの望みだ」。
 カナダのモントリオール郊外に暮らす。ロシアにいる母親も頻繁に訪れる。男ひとり女ふたりの子供たちと映画を見るがなによりもの楽しみ。そんなボクサーのプライムタイムは35歳にして始まったばかり。その豪打の本領を見るのはこれからだ。

アルトゥール・ベテルビエフ(ロシア)
【生年月日】1985年1月21日/35歳
【出身地】ハサヴユルト(ロシア・ダゲスタン共和国)
【ホームタウン】モントリオール(カナダ・ケベック州)
【身長】182cm
【リーチ】185cm
【タイプ】右ボクサー
【アマチュア戦績】300戦295勝5敗
【アマチュア実績】 
2008年北京、2012年ロンドン五輪代表
2009年世界選手権優勝
2009年世界選手権優勝
【プロデビュー】2013年6月8日
【プロ戦績】15戦15勝(15KO)
【世界戦戦績】4戦4勝(4KO)
【プロ実績】
IBF世界ライトヘビー級(2017年=防衛3)
WBC世界ライトヘビー級(2019年)

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