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2018-03-26

羽生結弦ファン&読者の皆様へ。マガジンは「文字テロ」をやめます。

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平昌五輪のフリーの演技を終え、ファンに応える羽生。喜怒哀楽のすべてが入り混じったような表情だ写真/Getty Images


 世界選手権が終わり、ミラノから日本へ戻る飛行機の中でこの原稿を書いている――というのは冗談で、みぞれが降ったと思ったら一気に気温20度超えの東京にいる。今季初頭の予定では3月下旬にもう1冊、フィギュアスケート・マガジンを発行するはずだったが、羽生結弦のワールド欠場で見送りに。2月27日に発売した「平昌五輪男子特集号」に収録できなかった企画は、新シーズン最初の号であらためてお届けできる(?)はずだ。

 五輪のフィギュアスケート会場・江陵から東京に戻ったのが2月19日の昼。そこからすべての編集作業が終わった22日朝までは、今となっては記憶があいまいだ。「待ってろ印刷所。必ず下版するから」と自分に言い聞かせ、目の前の作業と向き合った日々も、終わってしまえばあっけなく、そこからしばらくは静かな時間を過ごせた。ふと思い立って東北を訪れ、羽生のエッジ研磨を担当する吉田年伸さんに会うこともできた。

「吉田さん、やっちゃいましたよ、彼」
「はい、すごい子ですよ、本当に」
「23歳にしてレジェンドですもんね」

 思えば、羽生が韓国入りした翌日の2月12日、江陵での最初の氷上練習では、とてもじゃないがそんな結末を予想することはできなかった。氷に下りても羽生はなかなかジャンプを跳ばず、右足の状態は相当悪いのだと思わせた。ところが、踏み切りとエッジ使いの練習を繰り返した後に、鮮やかなトリプルアクセル。練習時間をたっぷり残しながら、本当にうれしそうな顔でリンクを去った。

 翌13日の朝、試合会場で行われた練習ではサルコーとトーループ、2種類の4回転ジャンプをファンが見守る中で決め、練習後の会見では冒頭でファンへの感謝を言葉にして世界中に届けた。壮大なストーリーが大団円に向かって動き始めたと同時に、私は、羽生が現地入りしてから一夜明け会見までを時系列で紹介する記事をこの号のメインにしようと決断した。

2月13日の会見に、羽生は右足を冷やしながら臨んだ。引くことのない痛みと焦り。さまざまなものと戦いながらの五輪だった 写真/毛受亮介(JMPA)

 これまで私は、自分を「記者」と表現してきたが、正確にいうと「編集者」。編集者といってもそれがどんな仕事をする人なのかピンとこない人もいるだろうし、実際に記事も書いてきたので、便宜上、記者と名乗ってきた。編集者の立場としては、実際に大会が始まると、記事を書くことよりもまず先に、本をどういう構成にするかに頭がいく。

 男子SPは2月16日でフリーは翌17日、18日には一夜明け会見。それが終わるとソウルのホテルに移動して、19日朝9時に仁川空港を出発、日本に着いたらそのまま20日の朝まで校正というのが当初のスケジュールだった(実際には22日朝までずれ込んだが…)。現地での取材を終えてから本の構成、すなわち企画ごとのページ数や写真の見せ方を考えていたら、とてもじゃないが締め切りに間に合わない。

 だから、競技が始まる前の段階で本の構成を決めておく必要があった。当然、羽生の成績によってページ立ては大きく変わる。たとえば羽生が優勝もしくはメダルを獲得した場合、冒頭で演技のダイジェストを写真中心で紹介し、続いて長めの記事、そして会見の再現を含む「完全収録」、それから羽生の現地入りから一夜明け会見までを時系列で振り返る…というのが王道の流れだ。逆に成績がよくなかった場合は、やはり冒頭で(少なめに)演技に触れ、「なぜ敗れたか」の記事を挟み、「完全収録」「時系列振り返り」となるのが自然だ。

 しかし、羽生が現地入りしてからの2回の練習、そして会見を取材した段階でこう思った。スポーツ、しかもミスの可能性がつきまとうフィギュアスケートでは、結果は読めない。それでも、どん底の状態から這い上がってきた羽生は、メダルの色がどうであれ、いや、仮にメダルを獲れなくても十分に「勝者」といえるのではないか。ならば、羽生が江陵での日々をどう過ごし、どのように五輪を終えたかを、ページをたっぷり取って順を追って伝えていくことが、これまで彼と一緒に走り続けてきたファンの人たちにとって、もっとも伝わりやすいのではないかと思えたのだ。

氷から上がってからも、仕草の一つひとつが世界中の人々の目を引き付けた。スポーツという枠を超越し、人間としての魅力にあふれていたからだろう 写真/Getty Images

 羽生が2月16日、17日にどんな演技をして何を語ったのかは説明するまでもない。とりわけ印象的だったのは、大会を通じて彼が「正しい努力」を貫いたことだ。あるいは、羽生とスタッフが「正しい」と信じたことを立証するための努力を重ねたと言い換えてもいい。報道陣や周りの選手の目にどう映ろうと、彼は「自分が今やるべきこと」に没頭した。

 その姿は、アスリートであるかないかを超えて示唆的だった。今の足の状態で4分半という時間を乗り切ることができるのか。体力は持つのか。周囲が色めき立つ以前に、彼自身、大きな不安があったはずだ。しかし、不安に怯えるよりも、今、この瞬間に自分がすべきこと、できることを精一杯やる。リンクサイドで見ていて感じたのは、焦りや不安と闘いながら一歩ずつ進んでいく、羽生の人間としての強さだった。

 連覇を決めた翌日、2月18日に見せた、余分な力がどこにも入っていない素の表情と言葉も忘れられない。ファンの人に怒られるかもしれないが、メダルや順位、点数を追い求めるスケーター・羽生結弦は、2018年2月17日で終わったのだと思った。

「五輪特集号」の中で書いたように、羽生はこれから、自分を育ててくれた人のために滑っていくだろう――という思いは、1カ月以上が経過した今も変わっていない。五輪閉幕後、インターネットが伝える中に、羽生が金メダルを手に仙台に帰り、家族と水入らずの時間を過ごしたという項を見つけた。「一番最初にメダルをかけてあげたのはお母さん」。それは羽生結弦の人となりをよく表わしていたし、この五輪を通じて、私には一番うれしいニュースだった。

練習を終え、スタンドに向かってあいさつ。ファンの思いを背負って戦うという言葉は、まぎれもなく彼の本心から来たものだった 写真/毛受亮介(JMPA)

 五輪期間とは対照的に3月はゆっくり過ごすことができ、やはりインターネットで羽生にまつわる話題をチェックできた。驚いたのは、駒大苫小牧高、さらに明治大学でアイスホッケー選手として取材してきた相木健太君が、羽生の物まね芸人として人気者になっていたことだ。

 彼のお父さんは双子の名選手としてインターハイで活躍し、弟も現在、トップリーグの王子イーグルスで活躍している。1年前、大学の新人戦で相木君は母校の応援に来ていて「フィギュアも担当しているんですか? 今度、本に載せてください。ギャラは交通費だけでいいので」と名刺をくれた。

「読者の人の反感を買うと、君の芸人生活に影を落とすから」とやんわり断ってしまったのは、今となっては過ちだったか。先日は、ネットオークションに自分が使っていたホッケー用のスケート靴を出品、「5万数千円の高値がついた」と話題になっていたが、あのシューズ、実際にはもっと値段が高い。フィギュアを含めて、お金がかかることが普及の妨げになっている(そしてそれが具体的に世に知られていない)のは、氷上スポーツのこれからの課題だ。

 そうなのかなあ…と思わせる記事にも出合った。羽生ファンは彼の応援のために数百万の金を使うのも意に介さないという内容だったが、本誌に携わってきたこの3年、私が見て、感じてきたファンの人たちの印象とは正反対だった。確かに世界のどこに行っても多くのファンの人がいたし、中には金銭的に不自由のない人もいるだろう。しかし実際には、節約や工夫を重ねた末に自由になるお金をつくり、家族や勤め先に迷惑がかからないように最大限の努力をして、やっとの思いで観戦に行っている人が大半ではないだろうか。

 コツコツお金を貯めてようやくチケットを手にして、しかしお目当ての羽生が欠場、それでも会場に駆けつけて他の選手を応援する――そんなファンの人をずっと見てきた。この五輪でも、チケットやツアーのサイトを覗いて「そんな値段じゃ買えない」と泣く泣く断念した人もいたはずだ。

 江陵を訪れた人の中にも、苦労してチケットを手にして、しかし「家を数日間、留守にして大丈夫かしら」と悩んだ人は多かっただろう。なにしろ2月だ。子供の試験もあれば、風邪をひく可能性だってある。

「実はオリンピックのチケットが手に入ったんだけど…」と打ち明け、「せっかくだから行ってきなよ」「そうだよ。家のことは心配しなくていいから」という家族とのやり取りの末に、鍋いっぱいカレーを煮て、ハンバーグを13個くらい作り置きして、「お言葉に甘えて行かせていただきます。美香、お父さんを6時45分に起こしてあげてね。おみやげに保湿クリームを買ってきます。美津代」なんて書き置きを残して韓国に向かった人もいたはずだ。

 ファンの人の多くは母親であり、大人の女性。応援を続けられているのは家族の理解があるからで、本当に大切にすべきものは何なのか、彼女たちはちゃんとわかっている。

 ファンの人はお金の使い方も堅実で、フィギュアスケートの雑誌を担当して初めて「本屋に見に行く」という言葉を知った。買うかどうかは中身を見てから決める。あるいは、今月は雑誌をこれ以上買わないので、書店で読んで終わりにするという意味だが、おかげでずいぶん鍛えてもらったし、校正ミスを自分で見つけた時は落ち込んだ。

 読者の人は、限られたお小遣いをやりくりして本を買ってくれる。買いたいものを我慢して、この本を購入することを選んでくれた人もいただろう。そうやってお金を払ってもらっているのに、誤植をした自分にご飯を食べる資格はあるのだろうか。実際に絶食はしなかったが、ミスを見つけてから24時間はたいてい食欲がなかった。そんな日々を過ごしてきたから、「羽生ファンは湯水のごとく散財する」という、一部の人の思い込みのような記事には賛同できなかった。

 思い込みといえば、羽生がこれほど男くさいヤツ(同性としてあえてそう表現させていただきます)だったとは、実際に取材するまで知らなかった。演技内容がよかった時も、そうでなかった時も、彼は記者の前で自分をさらけ出す。そんなにしゃべっていいのか、そこまで正直に話さなくてもいいのにと、聞きながら心配になるほどに。反面、羽生に限らずスケーター全般にいえることだが、シーズン中は単独のインタビューが難しい。

 2015年11月、当時の世界記録を更新した長野のNHK杯で「そうだ」と思った。彼の言葉をありのまま全部まとめてしまえば、そのへんのインタビューよりずっと濃いものができるじゃないか―――。それは今も「完全収録」という形で続いていて、フィギュアスケート・マガジンの特徴になっていると思う。

 羽生の写真を見たいという人より、文章を読みたい人向けの雑誌。本誌をそんなふうに紹介してくれる人は多い。写真もけっして手を抜いているわけではないんですけど…と思う一方で、読者の人は本誌をクチコミで広めてくれた。「羽生を載せれば、そりゃ売れるよね」という人もいるが、この3年間、一体どれだけのフィギュアスケート雑誌が誕生しては消えていったか。「マガジンさん」と丁寧に呼んでいただき、こうして皆さんに選んでもらえていることには、本当に感謝しかない。

連覇を決めた翌日、一夜明けの会見に臨んだ羽生。重い荷を下ろした23歳の若者らしい姿がそこにはあった 写真/毛受亮介(JMPA)

 2年ほど前、ある記者が本誌を「文字テロ」と呼んだ。本誌の中でその4文字を使ったことは一度もないはずだが、このウェブでは、本とは違う雰囲気を出すためにあえて用いてきた。それに関して、この平昌五輪で考えさせられたことがあった。80歳を迎える母が、私が五輪取材に行くことを知ってショートメールを送ってきたのだ。

「テロに気をつけてくださいね」

 実はあなたの息子はテロなんだよ。そう送り返そうと思ったが、やめた。と同時に、2つのことを思った。どうしてこの人は、カタカナを半角打ちするのだろう。そして、もう1つ。母親というのは、いくつになっても母親だということだった。

 中東など、いまだ多くの地域で紛争が絶えず、その被害者は一般の市民であり、子どもだ。「文字テロ」という表現を面白がってくれる人もいたが、一方で、その言葉を苦々しく感じていた人もいただろう。何度もいうように、フィギュアスケートのファンの多くは女性であり、母親だ。爆弾が落ちた街で途方に暮れる人々、特に子どもの姿を映し出すニュース映像に、1人の母親として心痛めた人は少なくないはずだ。

 もちろん「文字テロ」には人を傷つける意図は1%もなかったが、不快に思う読者の方がいる可能性がある以上、今後、そうした表現は慎みたい。代替名としては、圧倒的な文字量を表す「文字大爆発(朝日新聞・後藤記者の案)」、あるいは気持ち悪くなるほどの文字量を示す「文字ゲロ」も候補に挙がってはいるが、前者は火山被害や爆発事故を想起させ、後者は語感が悪すぎるという問題がある。読後に甘美な感触が残る「文字ぺろ」、羽生の言葉が心地よい音色で蘇る「文字チェロ」も、いずれも決定力不足。ネーミングに関しては、引き続いての課題となっている。

エキシビションを区切りに、治療のための休養に入った羽生。自分が納得いくまでメンテナンスをして、自分が納得いく滑りをしてほしい 写真/毛受亮介(JMPA)

 本誌が誕生したのは2015年2月。正確にいうと制作準備が始まった前年12月がスタートだが、その後に人事異動などがあり、最後に残った編集部オリジナルメンバーが私だった。組織は常に動いているべきだし、私自身も新しいことにチャレンジする時期にいると感じていたこともあり、先の「平昌五輪男子特集号」をもって編集部を離れることになった。

 フィギュアスケートに嫌気がさしたわけでも、社内で問題を起こしたわけでも(私の記憶では)ない。昨年8月のプレシーズン号の制作後に会社には伝えており、この春に氷上スポーツの社団法人を立ち上げる予定だ。

 選手、取材者として、ずっとアイスホッケーに携わってきた。華やかなフィギュアスケートの世界に触れる中で、「これをアイスホッケーで実現したい」「首都圏のアイススポーツを発展させたい」という2つの思いが頭を離れなかった。特に男子のアイスホッケーは、フィギュアスケートとは対照的にきわめて厳しい状況にあり、記者、編集者という立場で盛り上げていくのは難しいと感じていたし、気力と体力があるうちに競技の現場で働きたい気持ちが強かった。そして、それを始めるのは、平昌五輪というお祭りが終わった時だと自分の中で決めていた。

 25年前の4月1日、私は地方の新聞社に入社して社会人の第一歩を踏み出したが、入社式で名刺を渡された時に言われたことをずっと守ってきた。「この名刺があれば、一般の人が入れない場所にも君たちは入っていける。でも、勘違いするな。権利を与えられるということは、義務が生じるということだ。君たちには、そこで見たもの、聞いたことを伝える責任がある」。自分をジャーナリストだと思ったことは一度もない。現場の空気や出来事を伝えて、読む人に楽しい時間を過ごしてもらうのが仕事なんだと思って生きてきた。

 果たして皆さんにご満足いただけたのかはわからないが、誠を尽くしてきたつもりだ。そして、記者・編集者生活の最後にフィギュアスケートを担当できたのは幸運だった。競技の特性ゆえか、ファンの人は、よければ「いい」、悪ければ「悪い」と、はっきり採点してくれる。それが本の進むべき道を示してくれたし、手紙や電話、贈り物で励ましてくれる人もいた。「皆さんの応援が力になります」は、まぎれもない真実で、身をもってそれを教えてもらえたのは財産だ。

 ひとつ心残りがあるとすれば、羽生に直接、あいさつとお礼ができなかったことか。それでもアイススポーツに関わっていれば、きっとどこかで会えるだろう。たくさんの人に愛され、困難に屈しない勇気と、「正しい努力」を重ねてオリンピックで勝つ。これから進む新しい世界で羽生結弦のような選手を生み出すことが、彼と、彼のファンの皆さんに報いることだと思っている。

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