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2024-01-19

阪神淡路大震災2日後に開催された全日本大阪大会の舞台裏…どうなる? 5年9カ月ぶりの“大阪三冠戦”【週刊プロレス歴史街道・大阪編】

川田利明vs小橋建太の三冠ヘビー級選手権

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 2024年元日午後4時10分ごろ、能登半島沖を震源とするM7.6、最大震度7の大地震が襲った。石川、富山、新潟3県の日本海沿岸に大きな被害をもたらし、交通が寸断されたため能登半島では孤立した集落も。依然、震度5弱を記録するなど余震が続き、避難所に身を寄せている被災者をはじめ、不安な日々を過ごしている。

 さて、大地震とプロレスといえば、思い起こされるのが1995年1月19日、阪神淡路大震災2日後に開催された全日本プロレス大阪大会だ。

 その後も新潟県中越地震(2004年10月23日)や東日本大震災(2011年3月11日)、熊本地震(2016年4月14日)などの大地震が発生しているが、被災地に隣接した都府県で発生2日後にビッグマッチが開催された例はほかにない。

 今回は阪神淡路大震災2日後に開催された全日本・大阪大会の舞台裏を、同大会のプロモーターの言葉を織り交ぜて紹介する。(週刊プロレスNo.1598/2011年10月12日付掲載記事を加筆・編集)

     ◇      ◇      ◇

 全日本プロレスの「新春ジャイアント・シリーズ」は慣例としてビッグマッチは開催されず、東京・後楽園ホールを中心に全国をサーキット。1990年以降、同シリーズの大阪大会は、府立体育会館第2競技場で開催されてきた。しかし95年は同会館のメイン競技場を押さえた。

 シリーズ唯一のビッグマッチで、当然、それに見合うだけのカードを組まなければならない。そこでプロモーターの伊藤正治氏がジャイアント馬場社長にお願いしたのが、三冠ヘビー級選手権試合だった。

「ダメモトで頼んだところ、馬場さんからは『(興行ギャラは)高いぞ』の言葉が返ってきました。でもOKをいただいて」実現。ちなみに興行ギャラは1000万円(当時)。それに会場費や選手・スタッフの宿泊費がかかる。営業経費も加えればウン千万円にものぼる。

「チケットがお金に替わればいいが、そうじゃなかったらただの紙切れ」。それでもファンのために、三冠戦開催を決定した。

 当時、同タイトル戦は日本武道館を中心に組まれており、四天王時代に突入して以降は、首都圏以外では札幌で一度おこなわれたのみ(93年5月21日)。大阪ではインターナショナル、PWF、UNの3冠統一2日後に初代王者ジャンボ鶴田の初防衛戦として行われた89年4・15以来、実に5年9カ月ぶり。大阪のファンからすれば待ちに待った全日本最高峰の闘い。その前人気は、次のエピソードが物語っている。

 前年暮れの「世界最強タッグ決定リーグ戦」大阪大会(94年11月25日)で、翌年1月の大阪大会で三冠戦開催がアナウンスされた。直後の休憩時間にチケット先行発売を行ったところ、長い列ができた。予想を大きく上回る売れ行きで、用意していた枚数では足りなくなり、近くの事務所まで追加のチケットを取りに走ったほど。しかも金額の高い席種から売れていった。伊藤氏の長い業界歴の中でも実券では最高の売れ行きとなり、先行発売の売り上げで会場費が支払えたほどだった。

 シリーズ前に発表されたカードは、川田利明vs小橋健太(当時)。川田にとっては初防衛戦で、小橋が四天王相手に至宝に挑戦するのはこれが初めて。フレッシュな対戦であったことも注目度を高めた。

 四天王時代初の“大阪三冠戦”。前売り段階で超満員確実だったが大会2日前、まだ夜が明けきらない早朝、阪神淡路地区を大震災が襲った。

 阪神高速神戸線が根元から横倒しになり、前輪が高架から飛び出して辛うじて転落を免れている高速バスなど、各局がニュースで伝える映像はショッキングだった。

 府立体育会館がある大阪は直撃ではなかったものの、被害状況からとてもプロレスを見に行こうなんて思えるような状況ではない。交通網は寸断され、借りに開催してもどれだけのファンが会場に来られるかわからない。

 地震発生直後から伊藤氏は全日本に連絡を取ろうとしたものの、電話回線がパンクしていてつながらない状態。夕方になってようやく大峡正男取締役(当時)とつながり、「体育館の状況はどうか? (大会が)できるかできないかを確認してほしい」との連絡を受けた。

 体育館に問い合わせたところ、一部の設備は使用できないものの開催可能との返事。それを報告したところ馬場社長“御大の一声”で開催を強行することとなった。

「中止になったら、チケットの払い戻しだけで数千万。すでに支払いに充てているので、手元にそんなに残ってない。開催してくれるとなって助かったが、お客さんが来てくれるか心配でしたし、チケットは買ったものの会場に来られないファンへの対応をどうするかなど、いろいろ大変でした」

 結局、来場できなかったファンには、未使用のチケットの引き換えに当日に試合を収録したビデオを送ることにした。それでも「試合中に大きな余震が発生したらどうするかとか、お客さんの安全をどうやって確保するかなど、あの時は大会が終了するまで寝られなかったですね」と振り返った。(つづく)

<プロフィル>
伊藤正治(いとうまさじ) 1951年12月10日生まれ、宮城県栗原市出身。旗揚げ戦前の新日本プロレスに入門。浜田広秋(グラン浜田)、関川哲夫(ミスター・ポーゴ)が先輩で、すぐ下の後輩が藤原喜明、小林邦昭。バトルロイヤルでプレデビューするも、ヒジの負傷で正式デビューを待たずしてプロレスラーを断念、営業に転向する。当時から大阪を担当。営業部を独立させる形で大塚直樹氏が新日本プロレス興業を設立。その後、ジャパン・プロレスが旗揚げされると、その流れから全日本プロレスの興行を手掛け、長州力vs天龍源一郎シングル初対決や長州vsジャンボ鶴田の大阪城ホール大会などを担当。Uターンでジャパン・プロレスが分裂すると、永源遙の勧めで独立、武藤敬司社長時代まで全日本の大阪大会のプロモーターを務める。その後、新日本「FANTASTICA MANIA」大阪大会をプロモートするも、コロナ禍で中断されたことと70歳を迎えたことで勇退した。

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