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2021-11-30

全日本プロレスへ電撃移籍した理由は「ビジネスだから」“不沈艦”スタン・ハンセンが語るアントニオ猪木<2>【週刊プロレス】

1981年12月、全日本プロレス蔵前大会に乱入したスタン・ハンセン

 新日本プロレス50年を振り返る企画として、過去に週刊プロレス本誌、特集号などでおこなった外国人レスラーのインタビューをここに再録する。第1回は“不沈艦”スタン・ハンセン。2回目となる今回は新日本での闘い、アントニオ猪木との闘いの思い出。そして、そこから感じたこと…。※2010年5月、アントニオ猪木50周年を記念して出版された「A・猪木50years~上巻」より。

――あなたが新日本プロレスで闘ったのは5年間だけです。

ハンセン いや、もっと短いはずだよ。1977年に2度行ってから、1年間のブランクがある。

――確かにそうです。そう考えると、実質4年しかなかったあなたと猪木の闘いが日本のプロレスを変えたのは驚きです。

ハンセン それは日本のファンが私たちの闘いを支持してくれたから。そして私と猪木は闘うにつれて進化していったと思う。

――1980年には年間のほとんどのシリーズに参戦してますが、レギュラー外国人という形式もそれが初めてだったと記憶してます。

ハンセン それが新しいスタイルになっていったのかもしれないね。それの道が開けたことによって、私はジャパンでキャリアを終えられた。

――しかもあなたが参戦するにつれ、新日本のビジネスは上がっていきました。

ハンセン それはエイゲンの力じゃないか(笑)<※注=ハンセンは全日本で営業をサポートしていた永源遙が新日本時代にも同じ役割だと受け止めていたと思われる>。でも、アリーナの規模が大きくなっていったのは覚えてる。私と猪木の闘いでブドーカン(日本武道館、蔵前国技館との記憶違い?)がフルハウスになったのはうれしかった。

――1980年2月には猪木を倒してNWFヘビー級のベルトを奪いました。

ハンセン 私の人生の中で最もエキサイティングな思い出だ。イノキを倒すことはニュージャパンで闘っているレスラーの誰もが目標にすることだし、私にとっても初めてビッグタイトルを手にした瞬間だったからねリング上で同じツアーに参加していたスティーブ・カーンらに祝福されたことを覚えてるよ。

――その年の9月に広島で闘った時には、猪木があなたにラリアットを見舞うシーンがありました。猪木vsハンセンのハイライトシーンといってもいいでしょう。

ハンセン そうかい? あの頃は毎日のようにイノキと闘っていたけど、そこまでしないと勝てなくなってきたんだろう。相手の想像を超えた闘いをするのがイノキという男だ。

――猪木と闘うにつれて感じたことはありますか?

ハンセン とにかく逃げないファイターだった。ウエスタン・ラリアットで何度ダウンさせても、次には真正面から闘いを挑んでくる。その姿勢には私の方が怖くなった。

――猪木以外にも坂口征二、長州力と、当時あなたと対戦が多かった日本人選手はみな、首を負傷してました。

ハンセン それでも誰も逃げることはなかった。それがニュージャパンの闘いだ。私は向かってくる相手を叩きのめすだけさ。

――ただ1981年12月には全日本に電撃移籍しました。「世界最強タッグ決定リーグ戦」の最終戦(同年12・12蔵前)でブルーザー・ブロディのセコンドとして姿を見せた時は驚かされましたが、全日本に移った理由は何だったんですか?

ハンセン プロレスリングはビジネスだから。当時はそういう意識しかなかった。リング外では猪木とはツアーの中で一度顔を合わすぐらいだったし、その時も「ハロー」と挨拶を交わす程度。ゆっくり話したこともないし、彼が私に対してどう考えていたかもわからなかった。直接コンタクトをとることもなく、いつもオフィスの人間が間に入っていた。猪木とはあくまでもビジネスでの関係。だからオールジャパンからビジネスの話を持ち掛けられたんで決めただけのこと。でも、オールジャパンに移ってから考えが変わったけどね。

――ほかに猪木に関して思うことはありますか?

ハンセン 50年のこの業界でトップにいることは驚きだ。誰もが猪木のことを知っているし、ほかの業界を見渡してもそんな人はいないんじゃないか。

(つづく)

橋爪哲也

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