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2019-07-19

【柔道】日本柔道オリンピック金メダリスト列伝(第11回)岡野功

柔道が初めてオリンピックの正式競技となった1964年東京大会から2016年のリオ大会まで、“柔道王国”日本は史上最多のメダルを獲得してきた。そして、その長い歴史の中で燦然と輝くのは卓越した技量で他を圧倒し、表彰台の頂点を極めた金メダリストたちだ。ここでは、各階級のレジェンドからリオ大会の大野将平、ベイカー茉秋、田知本遥まで、『日本柔道オリンピック金メダリスト列伝』として1人ずつ紹介。今回は、1964年東京大会80kg級・岡野功をクローズアップする。(※文中敬称略)

※写真上=1964年東京五輪80kg級決勝。岡野功は横四方固めでホフマン(統一ドイツ)に快勝した
写真/BBM

1964年東京五輪80kg級
岡野功

◆弁護士志望から柔道一筋で
大成した思索の柔道家

 岡野功は多くの法律家を輩出している中央大法学部出身。1年生の頃は真剣に弁護士を目指していた。しかし、柔道の合宿所生活はそれを許さなかった。入学時の雑用、6時間の稽古、そして先輩のお説教も数時間。とてもじゃないが、法律の勉強など夢のまた夢だった。

 すぐに岡野は方向転換した。2つに1つなら柔道だ。1年時に決心してから柔道に一筋になっていった。考えた末の決断は早かった。彼はこの頃を「学生時代は青春の真っ盛り。(中略)若いときには憧れを抱き、年齢を重ねてくると苦悩の日々も全て浄化し、美化した思い出のみを回想しがちだが、内実はそんなにさわやかなものではない」(『中大柔道百年史』より)と振り返っている。

「青春時代の真ん中は胸にとげ刺すことばかり」という歌があるが、まさに岡野の青春はそんな感じで始まった。だが、2つのうちの1つを選択したことで、稀代の、歴史に名を残す柔道家になった。

 1964年の東京五輪では、1、2戦はポルトガル選手、ベネズエラ選手に背負い投げ、合わせ技で完勝。準々決勝ではグロッサン(フランス)に送り襟絞めで「一本」。準決勝は天理大柔道部の金義泰(韓国)を足技で攻めて優勢勝ち。そして決勝は、ホフマン(統一ドイツ)の左小外刈りを返して横四方固め。得意の”後の先”だった。

※写真上=表彰台の一番上を占めた岡野功。向かって左端は2位のホフマン。3位はブレグマン(左:アメリカ)と金義泰(韓国)
写真/BBM

 岡野は翌年のリオデジャネイロ世界選手権でも優勝。67、69年には全日本も獲って3冠になった。日本には7人の3冠がいるが、最も軽い柔道家が岡野だ。現役時代は約80kg。柔道では『柔能制剛』は死語のようなものだが、岡野はその体で超級を倒し3冠になった唯一の柔道家だ。その意味では、彼によって辛うじて『柔能制剛』が現代柔道でも成立したといえる。

 一般的にはこれからという25歳のときに突如引退。70年からは柔道私塾・正気塾を開き、二宮和弘や津沢寿志らの世界チャンピオンを育てた。

 得意技はたくさんあるが、左一本背負い投げ、相手の股に左手を差し込む掬い投げのような大外返し、小内刈り、2段モーションのような小外刈り、袖釣り込み腰など、どれをとっても決め技としての威力を持っていた。また、寝技も得意だった。

 徹底的に考え、イメージトレーニングをしながら自分の柔道を作り上げていった岡野。強さや技術的な優位性のみが先行しているイメージもあるが、弁護士を目指していたように、内面は思索の柔道家だ。著書『バイタル柔道』は、多くの柔道家にとって必須の手引き書となっている。

Profile おかの・いさお 1944年1月20日生まれ、茨城県龍ケ崎市出身。竜ヶ崎第一高-中央大。64年東京五輪優勝、65年世界選手権優勝、66年選抜体重別優勝、67・69年全日本選手権優勝、68年全日本選手権2位。

文◎木村秀和

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