【Vol.1はこちらから】田中希実。日本女子中距離界に衝撃を与え続けている小柄な女王。その専属コーチは実父・田中健智である。指導者としての実績もなかった男が、従来のシステムにとらわれず「世界に近づくためにはどうしたらいいか」を考え続けてきた。そんな父娘の共闘の記憶を、田中健智の著書『共闘』から抜粋しお届けする短期連載。
前回の『【連載】田中希実の父親が明かす“共闘”の真実 Vol.9 「希実を複数種目で走らせる理由」』を読む第10回目は、田中希実が多種目かつ世界での転戦など、ハードスケジュールを科すことへの狙いについて。田中健智が「当たり前」と語る、その理由とは。
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一つの種目に絞って集中的に取り組んだほうが良いという意見も根強いと思うが、私としては、すべての種目が結びつき合うことで、一つの種目が整うこともあると思うのだ。過程では複数のことにチャレンジして感覚やスピードを磨き、一つひとつの練習やレースをやり遂げることが、世界選手権のような大一番のレースにつながっていく。周りからすれば、闇雲に異なる種目に挑んでいるように見えるかもしれないが、それぞれの距離を極めていった先に、世界の5000メートルでラスト勝負に残るという「目標」が見えてくる。
こうした考えのもと、希実は主に800メートルから5000メートル、クロスカントリーまで多種目に取り組み、年間を通して数多くのレースをこなしている。マラソンでいえば川内優輝選手のスタイルに近いのだろう。
先ほど触れたように、私たちはレースに出続けることによって、練習の成果や方向性を確かめている。クラブチームでは後藤(夢)と一緒に練習させていると思われがちだったが、実際はそれぞれ違うポイント練習をしていて、片方が走っている時は、もう片方がジョグでつないでいる…というように、一人ずつ練習させていた。一人で練習している分、レースでは「テーマ」を決めて、有効にトレーニングにつなげていかなければならない。例えば1500メートルではラスト500メートルを何秒で上がれるかを意識させたり、3000メートルでは1500メートル+1500メートルのイメージでタイムを設定したり、試合ごとに色々な表現=レース展開を試して、次のトレーニングを考える「材料」にしてきた。
周りからは「たくさんレースに出ているのにいつも高いレベルで安定している」と評価してもらえることもあるが、私としては何ら特別なことをしている意識はない。単純に、その代わりに普段はしっかり休ませて、メリハリをつけているだけだ。
彼女の場合、オンオフの切り替えがはっきりしていて、私が決めたメニュー以外のことはほとんどやらないし、休みの日は完全に身体をリセットしている。一方、もしチームで動いていたとしたら、「他の子が練習しているから自分もやらなきゃ」という強迫観念が生まれて、いわゆる"コソ練"をしてしまうかもしれない。
もちろん自主的にトレーニングを行うのは悪いことではないのだが、毎日がそんな状況だったら身も心も持たないと思うし、大事なポイント練習もぼやけてしまうのではないだろうか。よく「練習ではできていたのにレースで上手く走れない」という悩みを耳にするが、せっかく記録会に出たのに、普段の練習と変わらない、もしくは下回るようなタイムしか出せないのはもったいないことだ。
その点、私が意識しているのは、調子の「山」を上手くレースに合わせること。例えば一週間のうちに、一日に10キロも走らない日や、完全休養の日を織り交ぜることで、負荷の高いポイント練習の日にグッと集中できるようにしている。ポイント練習自体は、レースでこのタイムを出したい、というところから逆算して、レースペースに近い負荷を設定している。一見、連戦・転戦で休む間もなく動いているように見えるが、こうして普段のトレーニングで上手く調子の波を作ることで、狙った試合でタイムを出せるようになってきたのだろう。
海外の選手、特にダイヤモンドリーグに出場するような選手は、ハードな連戦・転戦をこなしていて、レースが夜遅くに終わるのにホテルにもう一泊せず、荷物だけ受け取り、真夜中に次のレース会場まで移動する選手もいる。国をまたいでの転戦も珍しいことではない。海外で戦うには、そうしたタフなスケジュールは「当たり前」で、やはり世界水準で動いていかなければならないと思うのだ。そのためには常にレースに出られる身体を保ち、本命の大会を意識しながら、連戦の中で仕上げていく力を磨いていく必要があると思っている。
【田中希実の父親が明かす“共闘”の真実Vol.11に続く】
<田中健智・著『共闘セオリーを覆す父と娘のコーチング論』第4章-常識を覆すコーチング-より一部抜粋>
今年6月の日本選手権800メートルで、田中希実は優勝した新星・久保凛(左)ともラスト1周でデッドヒートを展開した(Photo:BBM)田中健智
たなか・かつとし●1970年11月19日、兵庫県生まれ。三木東高―川崎重工。現役時代は中・長距離選手として活躍し、96年限りで現役引退。2001年までトクセン工業で妻・千洋(97、03年北海道マラソン優勝)のコーチ兼練習パートナーを務めた後、ランニング関連会社に勤務しイベント運営やICチップを使った記録計測に携わり、その傍ら妻のコーチを継続、06年にATHTRACK株式会社の前身であるAthle-C(アスレック)を立ち上げ独立。陸上関連のイベントの企画・運営、ランニング教室などを行い、現在も「走る楽しさ」を伝えている。19年豊田自動織機TCのコーチ就任で長女・希実や、後藤夢の指導に当たる。希実は1000、1500、3000、5000mなど、数々の日本記録を持つ女子中距離界のエースに成長。21年東京五輪女子1500mで日本人初の決勝進出を果たし8位入賞を成し遂げている。23年4月よりプロ転向した希実[NewBalance]の専属コーチとして、世界選手権、ダイヤモンドリーグといった世界最高峰の舞台で活躍する娘を独自のコーチングで指導に当たっている。
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