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2025-04-13

日本全国でも900人の珍しい苗字…大仁田厚がABC大仁田美咲アナと初対面!! 数々の秘話も大公開「実はタイガーマスクに憧れていた」【週刊プロレス】

大仁田厚とABC大仁田美咲アナ。指示されることなくファイアーポーズで2ショット

4月11日、大仁田厚が来阪、ABCラジオ「兵動大樹のほわ~っとエエ感じ」に生出演した。

早めに局入りした大仁田が偶然にも顔を合わせたのが、同局の大仁田美咲アナ。局内では「親戚じゃない」と関係を否定していた美咲アナだが、“大仁田界のスーパースター”と突然の初顔合わせにビックリ。「せっかくだから写真撮ろうよ」(大仁田厚)と声をかけられての2ショットでは、しっかりファイアーポーズを決めていた。

大仁田厚が長崎出身、大仁田美咲アナは有明海を挟んだ対岸の熊本出身。「親戚じゃない」と否定していた美咲アナも、大仁田姓は日本全国でも900人ほどしかいないことから、「どこかでつながってるかもしれませんね」と一気に距離が縮まった感じ。

ちなみに美咲アナの弟の名前は、文字は異なるが「あつし」だという。「弟は『おおにたあつしです』と自己紹介しても冗談だと思われて」というエピソードを披露。素顔の大仁田厚に関して、「怖い方だと思ってたんですけど、優しいですね」と感想を述べると、周りのスタッフは「そのうち特番でも……」と“ダブル大仁田”での売り出し作戦を練り始めた。

和やかなムードの包まれた中でスタジオ入りして生放送に臨んだ大仁田。「ワイルドシング」が流れる中、紹介された大仁田の第一声は「ファイアー!」。「大先輩のアントニオ猪木さんは亡くなるまで『ダーッ!』ってやってたから、俺も亡くなるまで『ファイアー!』ってやるよ」。

パーソナリティーの兵動大樹が、三番勝負で勝利してNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座獲得後にチャボ・ゲレロにトロフィーでメッタ打ちにされ大流血したシーン(1982年7月30日、川崎市体育館)をテレビで観ていて衝撃を受けた思い出を伝えると、大仁田は「あれがあったからデスマッチの凄さを伝えられた。それがなかったら僕の中にデスマッチは存在しなかったし、FMWの基礎であるデスマッチも生まれなかった」と明かした。

当時、新日本プロレスでタイガーマスク(初代、佐山聡)が大ブームを起こしていた。同じジュニアヘビー級の選手として何かと比較された大仁田だったが、実は「憧れてた」。「憧れてるタイガーマスクに勝てるわけねえじゃねえか。いやあ、(何かと比較されて)つらかったなあ」と当時を振り返った。

デスマッチ路線でFMWを人気団体に押し上げた大仁田。その功績が認められ、アメリカでレジェンドとなった。近年はコンベンションに招へいもされている。

一方で大仁田といえば、引退→復帰を繰り返してきたことで有名。「7回引退して復帰したって言われているけど、僕自身、引退した覚えはない。ウソじゃねえ! 俺からしたらちょっと休んでただけ。俺も“休養”にしときゃよかったなあ……。『ちょっと体を治すため休養します』って」。

フリーとなって新日本プロレスに上がり始めた1999年には定時制高校に入学。その後、大学にも進学。大学卒業時に「卒業プロレス」と銘打った大会を開催したが、その際、プロレスを卒業すると解釈され“引退”と報じられたエピソードを披露。

また、新日本プロレス東京ドーム大会(1999年1月4日)でタバコを咥えながら入場したことが大問題に発展した裏話も公開。

「たまたまポケットにタバコが1本入ってて、どうせ新日本の興行だからいいだろうと思って吸いながら入場したんだよね。そしたら、東京ドームを使わせないってなって」

昨年5月には腹部大動脈りゅうで手術を受けているが、発見されてから4試合をこなしていたことも明かした。兵動大樹から「数え切れないほど手術してるでしょ?」と突っ込まれると、「何回か死にかけてるし、気管切開もしてる。1500針以上縫ってるしね」と冗談っぽく返した。

「FMWはTV中継なかったから、試合の合間にテレビに出て知名度を上げるしかなかった。レギュラーも持って。3年間で2日しか休みなかった」と多忙を極めていた。

ほかにも道頓堀ダイブ(1992年12月7日)のエピソードなどが披露されたが、兵動大樹は「大仁田さんってエンターテイナーですね」と感心することしきり。何度も爆笑に包まれた出演は、「ファイアー!」で幕を閉じた。

なお、大仁田が出演した番組の模様は、Radikoプレミアム(有料)で4月18日15時まで聴取可能。

橋爪哲也

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