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2025-04-29

【連載 泣き笑いどすこい劇場】第31回「出稽古」その1

昭和57年1月場所13日目、新横綱の千代の富士は大関琴風を寄り切り。初顔から7連敗した琴風にこれで7連勝とし、完全に立場を逆転した

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3日見ぬ間の桜かな、と言いますが、花の季節の過ぎ去る早さよ。
今年もあっという間に青葉、若葉の季節になってしまいました。
人間もこんなふうに素早く変われるといいのですが、そうなるためにはやはり時間や稽古が必要です。
その稽古法もいろいろ。
大相撲界では場所が近づくと、多くの力士たちが思い思いの部屋に出稽古するのが、恒例になっています。
そもそも出稽古とは、お華や踊り、お茶などの師匠が弟子のもとに出向いて稽古をつけることで、大相撲の出稽古はちょっと意味が違うようですが、それだけにさまざまな思惑が交錯し、ドラマチックでもあります。
そんな出稽古にまつわる泣き笑いエピソードを集めました。
※月刊『相撲』平成22年11月号から連載された「泣き笑いどすこい劇場」を一部編集。毎週火曜日に公開します。

立場は逆転したが……

よその部屋に打って出る出稽古を最も上手に肥やしにした力士は、31回も優勝し、大相撲界で最初に国民栄誉賞を受賞した横綱千代の富士かもしれない。

千代の富士が幕内に定着したのは3度目の入幕を果たした昭和54(1979)年名古屋場所以降のことだ。それまでは持病と化した肩の脱臼に苦しみ、十両、時にはその下の幕下まで行ったり来たりの生活を送っていた。

このようやく幕内に定着し、自分の相撲に自信を持ち始めたころ、どうしても勝てない力士がいた。思い切り当たってガブッて出てくる琴風だ。のちに素早く左前ミツを取って投げたり、無類の強さを発揮したが、当時は体は小さいのに、左から思い切り引っ張り込んで大きな相撲を取っていた。一気に突っ走る琴風にとっては、こんなに攻略しやすい標的はいなかったのだ。

「琴風の出足さえ止めることができたら、怖い者はいない」

こう思ったのは、千代の富士ばかりではない。師匠の九重親方(元横綱北の富士)も思いは同じで、ある朝、千代の富士が稽古場に降りると師匠の姿は見えず、

「(琴風のいる)佐渡ケ嶽部屋に行っている」

という伝言だけが残っていた。千代の富士も仕方なく後を追いかけ、苦手の琴風と稽古する羽目になった。勝てない相手に勝つためには、勝てない相手と稽古するのが一番。この師弟はこの苦手攻略法の原点に戻ったのだ。

これ以降、千代の富士はそれこそ雨の日も風の日も“琴風詣で”を続け、のちには胸を合わせただけで、琴風が何を考えているのか、分かるようになったという。当時、九重部屋は都内の江戸川区春江町で、佐渡ケ嶽部屋は錦糸町にあり、タクシー代が片道3000円近くかかった。

「毎日のことだから、バカにはできない。(しっかり稽古して)元を取らなくちゃ帰れないよ」

と千代の富士は冗談交じりに話しているが、この出稽古の効果はてきめんだった。千代の富士は琴風に昭和51年名古屋場所で初対戦して以来、7連敗した。ところが、出稽古を開始してしばらく経った昭和55年九州場所で初めて勝つと、それをきっかけに立場は一転してなんと12連勝。1つ負けて今度は10連勝とすっかり苦手をカモに変えてしまった。と同時に番付もウナギ上りで、この連勝が始まった翌56年には関脇から大関を通過して横綱にまで昇進した。タクシー代が何十倍にも跳ね上がって戻ってきたのだ。

こうして千代の富士にいいようにしてやられた琴風こそ、いいツラの皮。ずっとあとになって琴風に、

「押しかけられて迷惑だったんじゃないの」

と聞くと、こんな答えが返ってきた。

「そんなことはありませんよ。確かに、横綱にはなかなか勝てなくなったけど、一緒に稽古したおかげで自分も大関になれたんですから」

琴風が大関に昇進したのは、千代の富士が横綱になった翌場所の昭和56年九州場所のことである。

月刊『相撲』平成25年5月号掲載

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