close

2025-05-17

サブゥー追悼…リングはまるで火災現場でパニック状態! FMW大仁田厚の命を救った日本初のファイアーデスマッチ【週刊プロレス】

大仁田厚&ターザン後藤組vsザ・シーク&サブゥー組

全ての画像を見る
サブゥーことテリー・ブランクさんが5月11日(現地時間)、亡くなったとWWE、AEWが公式HPで報じた。享年60。

今年の裏レッスルマニアにおけるGCW大会(4月18日=現地時間、ネバダ州ラスベガス)でジョーイ・ジャネラ相手にノーロープ有刺鉄線マッチで引退試合を終えた3週間月後の急死に驚きを隠せないファンは多いだろう。死因は明かされていない。

叔父であるザ・シークの下でトレーニングを積んだサブゥーは、1985年にデビューしてからは五大湖周辺のインディー団体をサーキット。1991年11月、FMWの「世界最強総合格闘技タッグリーグ戦」にザ・シークのパートナーとして初来日した。

当初、史上最凶悪コンビ(ザ・シーク&アブドーラ・ザ・ブッチャー)の平成版としてサブゥーのパートナーにはザ・スーダンなる巨漢の黒人レスラーが起用される予定だったが、甥に英才教育を施すべくザ・シーク自らが腰を上げて10年ぶりの来日を果たす。FMWマットでのサブゥーの役割は、ザ・シークのパートナーとしてだけでなく身の回りの世話係も兼ねていた。

臆することなく有刺鉄線に飛び込み、自爆を恐れないテーブル破壊ムーブで人気を得た。攻撃をかわされてロープがわりに張られた有刺鉄線に首が絡まるシーンなど、サブゥーのハードコアファイトは驚きの声こそ上がるも、失笑は起きず。のちにアメリカに持ち込んだハードコアファイトは、FMW時代に築かれたものだった。

そんなFMW時代のサブゥーのハイライトといえば、1992年5月6日、兵庫、三田市ニチイ三田店駐車場でおこなわれた日本マット史上初のファイアーデスマッチが挙げられる(大仁田厚&ターザン後藤組vsザ・シーク&サブゥー組)。

実はこのファイアーマッチ、後発ながらデスマッチ団体としてFMWのライバルとして浮上してきたW★ING(茨城清志社長)が同年夏にファイアーマッチを開催するとの情報をキャッチしたことから、デスマッチ団体として確固たる地位を築き上げつつあったFMWが“先を越されてなるものか”と急きょ開催したもの。十分な準備期間がなかったことが、あわや大惨事を招く事態を引き起こした。

ロープのかわりに有刺鉄線を張り、1メートル半ほどの角材に布を巻きつけたトーチを各面のトップロープに2個、セカンドロープに1個設置。そこに灯油をしみこませて4選手がリングインした時点で点火する段取りだった。

布にはたっぷり灯油をしみこませていたが、点火してもなかなか火が上がらない。ところが1分ほどすると、大きな火柱を上げ始めた。リングサイドの観客が座っていられないほどの熱さ。観客はリングから離れられるが、リング内の4選手は四方を炎に囲まれて逃げ場がない状態。さらにリング上は酸欠状態となった。

もはや闘える状態ではない。4選手はパニック状態に陥り、リング中央で山のように重なって若手が消火するのを待つしかない。とはいえ、たっぷりと灯油をしみこませて炎を上げているトーチが計12本。リングサイドに用意されていたのは7本の消化器と水の入ったポリバケツが25個ほど。目の前には火災現場と思われるほどの炎が立ち上がっている。

リングを囲んでいる若手も動揺しており、ここで機転を利かせたのがサブゥー。サードロープがわりの有刺鉄線にトーチがつけられていないのを見て、その下からリング外に滑り下りたのだ。

このサブゥーの動きを見て大仁田、後藤もリング下に避難。しかしザ・シークは動きが遅かったためリング下に逃避したものの、背中に重度のやけどを負ってしまった。

もしあの時、サブゥーが機転を利かせなかったら……。4人の命は危なかったかもしれない。その意味では、サブゥーは大仁田の命を救ったともいえる。

橋爪哲也

PICK UP注目の記事

PICK UP注目の記事



RELATED関連する記事