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2025-06-28

アンドレ・ザ・ジャイアントがギブアップ! アントニオ猪木が成し遂げた世間、前田日明との見えない闘い…プロレス歴史街道~愛知県体育館編(3)【週刊プロレス】

アンドレ・ザ・ジャイアントからギブアップ勝ちしたアントニオ猪木

アンドレ・ザ・ジャイアントは1974年2月の新日本プロレスへの来日以来、アントニオ猪木とは22度シングルで激突している。戦績は猪木の7勝5敗14分。しかしその勝利のほとんどはリングアウトや反則によるもので、決着がついたとは言い難いもの。むしろ大巨人の冷静さを欠いて暴走させるしか、猪木が勝つ道はなかったともいえる。しかし唯一、猪木の完勝といえる闘いがある。その舞台となったのが、愛知県体育館だった。(文中敬称略)

新日本プロレスにおける愛知県体育館での快挙といえば、猪木が“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントからギブアップを奪ったシーンが挙げられる。

アメリカに渡り、アンドレを名乗るようになってから、一度もピンフォール負けを喫していない大巨人。80年代前半にはビンス・マクマホン・シニアから、「アンドレから3カウントを取れば」と賞金が懸けられた。しかし誰ひとりとして成し遂げることができないまま80年代後半を迎える。

“不穏試合”として語り継がれることとなった津市体育館でのアンドレvs前田日明(1986年4月29日)。試合は前田のヒザ関節へのローキックを浴び続けたアンドレが試合放棄(裁定はノーコンテスト)となったが、のちに前田は「あの時、カバーにいってカウント3が入ったら100万ドルもらえたのかな?」と振り返っている。ちなみにこの津での大会も、共同企画がプロモートした大会である。

そしてその約1カ月半後となる同年6月17日、IWGPリーグ戦の公式戦として愛知県体育館で組まれたのがアントニオ猪木vsアンドレだった。

シリーズ前、写真週刊誌に一般女性と一緒にいるところが掲載された猪木は、特に言い訳をせず、“みそぎ”として丸坊主にして開幕戦に姿を見せた。これまでも「ワールド・リーグ戦」や「MSGシリーズ」など、リーグ戦優勝を争うシリーズは数多く開催されてきた新日本だったが、A・B2ブロック制で実施されたのはこの「第4回IWGPリーグ戦」が初めて。その意味では、現在の「G1クライマックス」の原型ともいえるだろう。

Aブロックにエントリーされた猪木。しかし前田はBブロックだったため、注目のカードは優勝決定戦でしか実現しない。猪木は順調に勝ち進み、アンドレとの公式戦最終戦を迎えた。

この1週間前の6月12日、大阪城ホールで前田と藤波辰巳が同年のプロレス大賞ベストバウト(年間最高試合賞)を獲得する凄絶死闘を繰り広げた。前年10月、前田がドン・ナカヤ・ニールセンとの異種格闘技戦で勝利して、猪木に代わる“格闘王”の称号を得ていた。全盛期に比べると陰りを隠せない猪木にすれば、アンドレ相手にふがいない闘いをすれば、“引退余儀なし”を迫られる崖っぷちに追い込まれていた。

しかしアンドレも、1カ月半前の前田との一戦で“大巨人神話”は崩壊していた。左腕に集中攻撃を浴びて崩れ落ちたところ、猪木はうつ伏せ状態のアンドレにのしかかって腕を取ると、まるで裏返しでの腕ひしぎを決めるように絞り上げた。するとたまらずアンドレは、タップアウトするジェスチャーこそしなかったものの、ギブアップの意思表示。フォール勝ちでなかったので(提唱者であるビンス・シニアがすでに亡くなっているため?)賞金を手にすることはできなかったが、史上初となる3カウントを奪う以上の快挙を成し遂げた。

結果的にこのシリーズがアンドレ最後の新日本マット参戦となった。アメリカに戻るとWWF(現WWE)専属となり、翌年の「レッスルマニア3」におけるハルク・ホーガンとの世紀の一戦に向けてラストランに突入。その意味では、長年世話になった新日本への置き土産ともいえる。

橋爪哲也

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