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2025-06-29

アントニオ猪木が引退前ラストマッチで相まみえた正道会館・角田信朗! プロレス歴史街道~愛知県体育館編(4)【週刊プロレス】

1998年3月22日、愛知県体育館で角田信朗を相手に公開スパーリングをおこなったアントニオ猪木

1998年4月4日、アントニオ猪木は引退試合をおこなった。引退を発表したのは天龍源一郎にフォール負けを喫した直後の1994年2月24日、日本武道館のリング上。そして同年5月1日、福岡ドームにおけるグレート・ムタ戦から引退ロードはスタートしていたが、引退試合の期日を発表したのは長州力の引退試合5人掛けがおこなわれた1998年1・4東京ドーム。その後、調整していたが急きょ、ラストマッチを直前に控えた1998年3月22日、愛知県体育館で公開スパーリングをおこなうと発表された。しかもそれは、とてもその枠に収まり切らないものだった。


スパーリングの相手に起用されたのは、正道会館の角田信朗。2週間後の4月4日に東京ドームで引退試合を控えていたが、対戦相手は8人によるトーナメントの勝者。小川直也、藤原喜明、山崎一夫、藤田和之、ドン・フライ、ブライアン・ジョンストン、イゴール・メインダート、デイブ・ベネトゥー。格闘技色の強い顔ぶれがそろっている。だからこそプロレスラーでなく、空手家でリングスに参戦経験がある角田を指名した。

石井和義館長を通じて角田にオファーしたのは、名古屋大会の1週間ほど前。館長からは「あとはそっちで話して」と伝えられた角田だが、「どうして自分に? プロレスのリングに上がったことはないし……」と受けていいものか迷ったという。ただ館長からの、「今後の人生を考えたら、やっといた方がいんじゃない?」との言葉に“猪木戦”を承諾した。

そして迎えた当日。会場入りした角田は、猪木の控室を訪ねた。角田が自己紹介したところ、猪木はリングシューズの紐を結びながら、ただ一言、「はい、どうも」と返しただけだった。

このタイミングで猪木が公開スパーリングをおこなうことにしたのは、仕上がりぶりを披露して、引退試合への期待を高める興行的な意味合いが大きい。ただ角田からすれば、どのように対応すればいいのかとの戸惑いは消えない。通常、公開スパーリングとなればだいたいの流れを決めておくもの。角田にすれば空手のエキシビションであればおおよその見当はつくが、プロレスとなると皆目イメージできない。猪木からは「何でもいいですよ」と言われ、なおさら“どうしたらいいんだろう?”との思いが強まった。

「ロー、ミドル、ハイ、後ろ回し蹴り……そんな感じだと思います」と自身が繰り出すだろう空手の技を伝え、猪木から「寝技は?」と尋ねられると、「リングスにお世話になりましたんで、防御の基礎はできると思います」と答えた。猪木は「じゃあ、それでいいです」と答えるだけで、結局、大まかな流れすら決めないまま控室を出た。

自身の控室に戻った角田。当時、小川直也のトレーナーを務めていた佐山聡が挨拶にやって来た。「どうしたらいいですか?」と尋ねたものの、佐山はニコニコしながら「もうおじいちゃんだから、いじめないでね~」と言うばかり。などと言ってるうちに、場内から田中秀和リングアナの「正道会館、角田信朗選手の入場です」のアナウンスが聞こえ、テーマ曲が鳴り始めた。角田は慌ててレガースを着けてリングに向かった。

そして猪木の入場を待つ。空手の道に進んだとはいえ、角田にすれば猪木は子供のころから見ていたスーパースター。リング上にいて「炎のファイター」のテーマに乗って猪木が花道を歩いてくる姿。それは今まで見たことない光景であり、それを独占している自分がいることに「幸せやなあ……」と浸っていた。

当初は5分間と発表されていたが、猪木はそんな制限を取っ払った。互いに一礼してゴング。いになり猪木はロープに走り、浴びせ蹴りを放つ。“うかつに飛び込んで組みつかれると、スリーパーで絞め落とされるかも……”と考えていた角田は距離を取って蹴りを放っていく。

ロープにもつれた際、離れ際に猪木が頭突きを放った。角田がヒジ打ちを返してエキサイティングな展開に。角田の鋭い蹴りを何発か浴びた猪木だったが、左ハイキックをキャッチしてテイクダウンを奪うと、グラウンドに引き込んでアキレス腱固めを決めた。ロープに逃れる角田。

素早く角田が立ち上がると“猪木アリ状態”に。猪木の足をつかんでヒザ十字を狙った角田に対し、猪木はアキレス腱固めに切り返す。角田がサードロープに手を伸ばしてブレークに持ち込むと、猪木は角田が立ち上がろうとするところへ低空の延髄斬りを放っていく。公開スパーとはいえ、一瞬たりとも気を抜けない展開。

最後は角田の右ハイキックを受け止めてテイクダウンを奪った猪木が、馬乗りになった状態でパンチを放とうとしたところで、猪木から離れて終了した。

なぜ猪木は角田を公開スパーの相手に指名したのか?

格闘技戦の勘を取り戻したいとの思いもあっただろうが、1990年代中盤からの正道会館は、K-1を企画して立ち技格闘技を世間に広めた。総合格闘技ブームが押し寄せるのは猪木が引退して、エグゼクティブ・プロデューザーに起用されてから。

角田は佐竹雅昭とともにK-1の中心となった日本人選手。なぜ立ち技格闘技のブームを巻き起こしたのか、その秘密を自身の体で感じ取りたかったのではなかったか。公開スパーのリングを包み込んだ緊張感こそ、猪木がプロレスに求めていたものではなかっただろうか。 

橋爪哲也

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