close

2025-07-14

7月14日は“獄門鬼”マサ斎藤さんの命日…弟子のマサ北宮は現在“失踪中”【週刊プロレス】

マサ斎藤さん

7年前の2018年7月14日、日本とアメリカで活躍した元プロレスラー・マサ斎藤(本名・斎藤昌典)さんが死去。享年75だった。

マサさんは1942年8月7日、東京都中野区出身。1964年の東京オリンピックにレスリング日本代表として出場し、1965年に日本プロレス入り。6月3日の高崎山猿吉戦でデビューした。

1966年にはアントニオ猪木が旗揚げした東京プロレスに移籍。マサさんが社長を務めた時期もあったが、団体崩壊の憂き目に遭ってしまう。

その後、渡米。NWA、WWF、AWAなど各テリトリーでトップヒールとして活躍。1972年には5年ぶりに日本凱旋。1974年には新日本プロレスに参戦し、1983年、長州力の呼びかけに応じて革命軍(のちの維新軍)に合流。ジャパン・プロレスの一員として全日本プロレス参戦も果たし、ジャンボ鶴田、天龍源一郎らとの対戦も実現している。

1984年4月、アメリカにてケン・パテラが起こした器物破損事件に巻き込まれる形で、警察官に暴行。有罪判決を受けてしまう。1年半の刑務所暮らしを余儀なくされてしまったが、1986年12月、アメリカで“獄門鬼”としてリング復帰を果たした。

1987年3月に日本マット界復帰。10月4日には猪木と巌流島で無観客マッチもおこない、2時間5分14秒の死闘の末に敗れたが、いまだに伝説の一戦としてファンの語り草となっている。

その後はたけしプロレス軍団の参謀役や外国人選手の発掘&育成など脇役的な立ち位置となるが、1990年2・10東京ドームではAWA世界ヘビー王者ラリー・ズビスコを破り、日本で初のシングル王座戴冠を果たした。

1999年2月14日の引退後はパーキンソン病と闘病しながら、2005年に設立された佐々木健介率いる健介オフィス(DIAMOND RING)でスーパーバイザーを務めた。中嶋勝彦、宮原健斗、マサ北宮らを育成した。

2016年12月2日の上井プロデュース興行にて久々にリングに登場し、2017年4月7日の同興行でもリングに上がり、DIAMOND RING時代のまな弟子・マサ北宮にエールを送っていた。

そのマサ北宮はNOAH6・21大阪大会で藤田和之とシングルで対戦したが敗北。試合後に「マサ北宮を見つめ直すときが今なのかもしれない」と語った。

NOAHは北宮から「自分を見つめ直す時間がほしい」との要望があったため、翌6・22名古屋大会からの欠場を発表。“失踪中”の北宮は25~29日に自身のXで師匠であるマサさんの思い出の地、巌流島を訪問する姿を配信。30日以降はXをポストすることもなくなった。

NOAH「プロレスリング・ノア25周年記念大会 NEW DEPARTURE day1」7・19後楽園大会ではTEAM2000Xが“X”を投入することを宣言している。果たして、北宮はいつどこで戻ってくるのか!?

NOAH25年史amazon予約はこちら!

加入月0円! 週プロmobileプレミアムはバックナンバー2300冊以上から最新号まで読み放題!

週プロ送料無料通販!

タグ:

PICK UP注目の記事

PICK UP注目の記事



RELATED関連する記事