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2019-07-11

<特別インタビュー> 「遠藤保仁と 少年時代のサッカー」前編

日本代表とJリーグで輝かしい実績を残しているガンバ大阪の遠藤保仁の原点に迫る。国内屈指のミッドフィルダーに上り詰めた男は、どのようにしてサッカーにのめり込み、現在に至るのか。時計の針を30年以上巻き戻し、少年時代を振り返ってもらった。その前編をお送りする。

(出典:『ジュニアサッカークリニック2019』)

メイン写真=2001年からガンバ大阪でプレーする遠藤は『桜州サッカースポーツ少年団』で本格的にサッカーの練習を始めた。チーム活動以外では、自宅の庭で2人の兄と毎日のようにミニ・ゲームなどを楽しんだ ©GAMBA OSAKA

今でも大切な
庭での「30分間」

――遠藤選手の故郷、鹿児島県の桜島町(現在は鹿児島市)は「サッカーどころ」として知られています。どのようにしてサッカーを始めたのですか?

遠藤 2人の兄(長男の拓也さんと次男の彰弘さん。彰弘さんは横浜マリノスなどで活躍)から受けた影響は大きいと思います。兄たちの存在と桜島がサッカーの盛んな地域だったというのが大きいです。しかも育った地域には野球のチームがなく、運動神経がいい子供はほとんどサッカーをしていました。

 小学校の高学年になる頃には、2人の兄を目標にプレーしていました。当時の僕にとってのとても高い目標が身近にあったのは良かったと思います。2人の兄がいなければサッカー選手になっていない、そう思えるくらい大きな存在でした。

――何歳くらいからボールを蹴り始めたか覚えていますか?

遠藤 はっきりとした記憶はないのですが、幼稚園児の頃にはボールを蹴っていました。兄たちがやっていたので自然と始めた感じですし、今ほどいろいろな娯楽がない時代でしたから、僕が幼い頃に遊ぶものと言えば、サッカーか野球しかないという感じでした。

 振り返っても、特別なきっかけはなかったと思います。ボールなど、道具を買ってもらった記憶もありません。基本的にすべて兄の「おさがり」でしたから(笑)。気がついたらサッカーをしていた、という感じでした。

――なぜ、サッカーに熱中したと思いますか?

遠藤 きっかけらしいきっかけはありません。ただし、「兄の試合を見に行くのが好きだった」というのはよく覚えています。空いている時間に自分でも友達とボールを蹴っていましたが、兄のサッカーが見たかったのです。

――遠藤選手が初めてチームに所属したのはいつですか?

遠藤 初めて所属したのは『桜州サッカースポーツ少年団』です。そのチームはその後、『桜峰サッカースポーツ少年団』と合併し、『桜島サッカースポーツ少年団』になりました。確か、僕が小学校5、6年生の頃だったと思います。

 桜州サッカースポーツ少年団には小学校3年生にならないと入団できませんでした。ですから、本格的に練習し始めたのは3年生からです。3年生までは試合もありませんでした。

――入団できないこともあり、お父さんが自宅の庭を整備してミニ・サッカーができるような環境をつくったと聞きました。

遠藤 そうです。そして、朝の7時から7時半まで庭で毎日、遠藤家の3兄弟に近所に住む2人の友達を加えた5人でミニ・ゲームをして学校に行く、というのが日課でした。雨と火山灰が降っている日以外はほぼ毎日やっていたと思います。本当に楽しい30分でした。

「ゴールを決めたい」、「兄からボールを奪いたい」という一心でプレーし、それができたときは本当にうれしかったのを今でも覚えています。

 年上の選手たちとプレーしたことで工夫する習慣を自然と身につけたのかもしれません。あの30分間で学んだこと、身につけたことというものも多少はあると思います。少なくとも、「今日は負けた。でも、明日は頑張ろう」という日々を繰り返した結果、負けず嫌いにはなれました(笑)。

――最近ではブラジルでも少なくなったそうですが、ブラジル人の選手たちも「ストリート・サッカー」を通じて体の大きな大人や年上の選手と子供の頃に対戦して体の使い方や工夫の仕方を学んだと言っています。

遠藤 一番上の兄とは6歳離れていたため、いつも必死にプレーしていました。当時の自分はまだ幼かったため、意図的に学習したという部分は多くはないと思いますが、大柄な相手と対戦してもシュートまでいける方法やボールを奪える方法を考えながらやっていたと思います。

18年シーズン終了時点でJ1通算602試合に出場した遠藤。19年も開幕戦からスタメン出場を果たして健在 ©石井愛子

「止める、蹴る」の基本が
今のスタイルを支えている

――小学生の頃、「サッカーをやめたい」と思ったことはありますか?

遠藤 毎日の練習がしんどくて「サボりたいなぁ」と思ったことはありますが(笑)、やめたいと思ったことはありません。

 当時、桜州サッカースポーツ少年団の藤崎信也・監督が「止める、蹴る」といった基本を大切にする方だったため、基本練習を繰り返していた記憶があります。例えば、「コントロールして右足で蹴る、左足で蹴る」や「浮き球を正確に、かつスムーズにコントロールする」練習を繰り返しました。チームプレーも練習していましたが、それこそ「嫌というほど」基礎練習をやりました。正直に言えば、「面倒だな」と思ったこともありましたが、あの練習が今の自分を支えている感じもします。ボランチという僕のポジションではスムーズな「止める、蹴る」が求められます。コントロールする前に周囲を見る、といったことも当たり前のようにしなければいけません。幼い頃から基礎を積み重ねてきたからこそ、その後のいろいろな経験を自分の力に変えられ、今の自分のスタイルというものがあると考えています。

――当時と今ではサッカーを取り巻く環境が大きく変化しましたが、基礎練習は必要不可欠ですか?

遠藤 そう思います。「止めて、蹴る」はプレーする環境やレベルが上がったとしてもやらないといけないものです。最近は指導環境や海外のサッカーに触れる機会が整い、トリッキーなプレーや格好いいプレーをしたがる子供が増えているようです。それに対してダメとは言いませんが、トリッキーなプレーの前提になるのは基本だ、ということを忘れてほしくないと思います。

 僕の時代では、ジネディーヌ・ジダン(元フランス代表)やデニス・ベルカンプ(元オランダ代表)といった選手たちが驚くようなプレーを見せていました。同時に彼らは、難しそうに見えるボールでもまったく問題ないようにコントロールしていたことを見逃すべきではありません。最近で言えば、ブラジル代表のネイマールなどがトリッキーなプレーで観客を沸かせますし、僕もそうしたプレーは格好いいと思います。

 しかし「止めて、蹴る」ができるからこそ、トリッキーなプレーがネイマールもできるのです。彼に限らず、自分の思ったところにボールを正確にコントロールできなければ、トリッキーなプレーはできません。基本を身につけずにトリッキーなプレーをしているわけではない、と知ってほしいと思います。トリッキーなプレーばかりしている選手は上のレベルでは通用しないからです。

※後編に続く→https://www.bbm-japan.com/article/detail/6257

(取材・構成/下薗昌記)

プロフィール

遠藤保仁(えんどう・やすひと)/ 1980年1月28日生まれ、鹿児島県出身。2人の兄から影響を受けて幼稚園児の頃にサッカーを始め、小学生のときは『桜州サッカースポーツ少年団』(その後、『桜島サッカースポーツ少年団』に名称変更)に所属した。98年に鹿児島実業高校を卒業し、横浜フリューゲルスに加入。その後、京都パープルサンガとガンバ大阪でプレーし、19年もG大阪の選手としてプロ22年目となるシーズンを戦っている。2002年にデビューを飾った日本代表では、3大会連続(06年、10年、14年)でワールドカップの出場メンバーに選ばれた

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