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2019-07-11

<特別インタビュー> 「遠藤保仁と 少年時代のサッカー」後編

Jリーグで輝かしい実績を残しているガンバ大阪の遠藤保仁の原点に迫る。国内屈指のミッドフィルダーに上り詰めた男は、どのようにしてサッカーにのめり込み、現在に至るのか。時計の針を30年以上巻き戻し、少年時代を振り返ってもらった。その後編をお送りする。

前編はこちら→https://www.bbm-japan.com/article/detail/6258

(出典:『ジュニアサッカークリニック2019』)

メイン写真=2002年にデビューした日本代表において国際Aマッチ最多出場記録(152試合)を保持する39歳の遠藤は現在、J1最多出場記録(631試合)の更新を視野に入れ、19年シーズンを戦っている ©GAMBA OSAKA

ワクワクした
試合のある週末

――「試合展開を考える」ことに関連すると思いますが、お兄さんの試合映像を自宅でよく見ていたとも聞きました。

遠藤 小学校2、3年生の頃から兄の試合映像を見ていた気がします。また、10歳のときに開催されたイタリア・ワールドカップ(1990年開催)の映像を本当によく見ました。ゴール・シーンはもちろんですけど、「格好いいな、このパス」、「なんでこのキックはこんなにカーブするんだろう」と思いながらビデオを何度も巻き返して見ていました。もちろん当時は、サッカーの試合が見たいから見ていただけでしたけど、繰り返し見ることで映像が頭の中に残りましたし、自分がプレーするときに「あのまねをしてみよう」ということにもつながりました。自然に学んでいたとは言えるでしょう。

――当時、試合にはどのような思いで臨んでいましたか?

遠藤 練習より試合のほうが楽しいものでしたし、試合のある土日が楽しみで仕方ありませんでした。ワクワクしていましたし、「今日は何点取ろう!」とか思っていたほどです。

――小学生の頃は、ドリブラーだったそうですね。

遠藤 足が速いほうだったため、ドリブルもしていました。しかしドリブラーというより、いろいろとやっていました。1・5列目と言えるようなポジションでプレーしていたから得点も決めていましたし、アシストもしていました。フリー・キックも蹴っていました。

――中学生以降、スタイルが変化したのですか?

遠藤 中学入学当初は前目のポジションでプレーしていましたが、2年、3年とポジションが徐々に下がっていきました。3年の頃にはボランチとしてボールをさばいていました。中学3年生の頃にボランチという言葉が使われ始め、ポルトガル語で「かじ取り役」という意味のポジションだと知ったのも当時です。チームにおいて重要な役割を担うことを理解し、同時に「しっくりくるポジションだ」とも感じていました。アシストやスルーパスの楽しさを覚えたのが中学時代でした。

――続いて、息子さんの話を聞かせてください。現在、中学生の息子さんもサッカーをしていますが、これまでどのような接し方をしてきたのですか?

遠藤 ボールを一緒に蹴ったことはありますが、特にアドバイスしたことはありません。「こうして蹴れ」なども言ったことはありません。ただし、ボールを蹴り合うときに息子の足元にボールをあまり返さない、ということはしていました。

――どのような狙いがあったのですか?

遠藤 「足元ばかりにボールを返すとうまくならない」と考えていたのです。足元にボールを返すと、「ただ蹴ればいい」という感じになりがちなので、それを避けるためにわざとボールを足元からずらしていたのです。すると、自然に体を動かしながら「どうやって止めようか」ということを考えて学ぶと思ったのです。もちろん、息子にそうした狙いを言ったことはありません。

 しかし、妻も僕も「なにがなんでも息子にプロになってほしい」と思って育てているわけではありません。「楽しめればいい」という感じです。

――息子さんは小学生のときから優れたドリブラーとして活躍していました。

遠藤 でも最近は、ドリブラーではなくパサーになりつつあると感じています。僕が特にドリブルの練習をさせたこともありませんし、やや足が速かったからジュニア年代ではドリブルが光ったのかもしれません。なんとなくですが、僕の小さい頃に似ている感じもします。徐々に、パスが好きになっていくようなところなどです。

日本代表としても多くの功績を残してきた遠藤。2010年の南アフリカ・ワールドカップでは直接FKを決め、日本のベスト16進出に大きく貢献した ©gettyimages

「武器を持とう」と
助言をしたい

――将来に向けて今後、息子さんにどのようなアドバイスをするのでしょうか?

遠藤 彼の練習や試合をあまり見に行っていないこともあり、具体的なアドバイスは難しいですね。ただし、「楽しくサッカーをしてほしい」とは思います。その中でいろいろなことを感じ、学んでほしいのです。

 僕が小さい頃よりもサッカーのレベルがはるかに上昇していますし、この先さらにうまい選手と競うことになります。その中でプレーを続けるためには頭の回転をさらに速くすること、技術を高めることが欠かせませんが、僕は「自分が武器とするものを1つ持つこと」が最も大切だと思います。

――現在のジュニア年代のサッカーを見て思うところなどはありますか?

遠藤 戦術的に進化し、ビルドアップもうまくなっています。しかし個人的にはもっとバチバチ当たり合い、1対1でもっと勝負してほしいとも感じています。8人制サッカーにも優れた点はありますが、ボールを動きやすくする、ボールに触る選手が増える、ためのルール上の工夫を施してもいいと思います。

――では、ジュニア年代の指導者にはどんな感じで今の子供たちに関わってほしいですか?

遠藤 サッカーだけでなく、いろいろなことを体験させてほしいと思います。例えば、サッカーの練習ではなく、「キックが上達する遊び」というのもそうした体験の一つです。最先端のサッカーに触れやすくなった環境を活かして学びつつ、子供たちが飽きないメニューを行なうように心がけることが子供の成長を促すとも思います。

 世界を目指すのであれば、1対1だけをすればいいということはありませんが、1対1の練習を突き詰めて行なってもいいと考えています。ジュニア年代で重視すべきはパスやトリッキーなプレーではなく、「止める、蹴る」です。そして極論すれば、「止める、蹴る」というベースがあり、しかも1対1でも勝てる選手は世界のトップクラスになれるでしょう。そういう練習の比重を高めるのも面白いと思います。

――子供たちにはどのようにサッカーと接してほしいですか?

遠藤 「バロセロナに行きたい」、「レアル・マドリードに行きたい」という高い目標を今の子供たちは持っています。それはいいことだと思います。実際、久保建英・選手はバルセロナに行っていましたし、中井卓大・選手もレアル・マドリードにいます。ですから、子供たちには小さい頃から海外に触れ、目標を持ってプレーしてほしいと思います。

 そして指導者の方々には、そういう子供たちをバックアップするために子供たちが楽しくプレーできるようにしてほしいのです。そのためには、選手が飽きずにうまくなれるような練習が必要になるでしょう。また、子供の失敗を叱るべきときもあるでしょうが、子供が積極的にチャレンジできる環境を整えてほしいと思います。一方、指導者の方々にも、失敗を恐れずにチャレンジしてほしいと思います。

(取材・構成/下薗昌記)

プロフィール

遠藤保仁(えんどう・やすひと)/ 1980年1月28日生まれ、鹿児島県出身。2人の兄から影響を受けて幼稚園児の頃にサッカーを始め、小学生のときは『桜州サッカースポーツ少年団』(その後、『桜島サッカースポーツ少年団』に名称変更)に所属した。98年に鹿児島実業高校を卒業し、横浜フリューゲルスに加入。その後、京都パープルサンガとガンバ大阪でプレーし、19年もG大阪の選手としてプロ22年目となるシーズンを戦っている。2002年にデビューを飾った日本代表では、3大会連続(06年、10年、14年)でワールドカップの出場メンバーに選ばれた

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