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2018-11-20

大分トリニータを J1昇格に導いた指揮官。 片野坂知宏の「指導履歴」

11月17日に行なわれたJ2最終節(第42節)、大分トリニータはモンテディオ山形から勝ち点1を奪い、2位を死守。実に、6シーズンぶりとなるJ1昇格を決めた。
昇格へ導いたのは、大分がJ3だった2016年から指揮を執る片野坂知宏・監督。過去には、トップチームのコーチとして3年連続で成し遂げたJ1優勝の経験などを持つ大分の指揮官に、指導者人生を振り返ってもらったインタビューをお届けする。
(出典:『サッカークリニック』2018年8月号)

※メイン写真=大分トリニータを率いて3年目となる片野坂知宏・監督。監督就任1年目はJ3に所属していたチームを、たった3年でJ1昇格に導いた 写真/佐藤俊彦

片野坂監督は紅白戦を重視。対人の中でチーム・コンセプトに取り組めるようにしている 写真/佐藤俊彦

「これ」と思った
J1への定着の仕方

──片野坂監督が目指すサッカーは特徴的です。ゴールキーパーも加えたていねいなボール回しを軸に、大きな展開も織りまぜ、相手ゴール前では複数の選手がゴールに迫ります。このスタイルにたどり着いた理由を教えてください。

片野坂 さまざまな監督の下でプレーし、現役から退いたあとはコーチとして学ばせてもらった上で、「これしかない」と思ったからです。「相手の変化を常に感じ取り、ゴールを狙う姿勢を持つこと」が大分のサッカーとなれば、J1に昇格したあともJ1に定着できると思っています。結果だけを求めてガチガチに守り、大した意図もなくロングボールを蹴ってゴールを奪えたとしても、残るものは少ないと思います。

──片野坂監督は戦術のトレーニングが豊富です。ある選手は「狙いが分かりやすい」とも話していました。指導において意識している点はありますか?

片野坂 次の試合に向けて対戦相手の攻略ポイントと自分たちの修正点をトレーニングに落とし込むように心がけています。最もいいと思うのは試合(紅白戦)を行なうことです。「11対11」や「8対8」、あるいは少人数での試合で、対人の中でチーム・コンセプトに取り組めるようにし、狙いとする現象が出るようなメニューを組んでいます。ただし、トレーニングはあまり複雑にならないようにしています。なぜなら、選手が考えすぎてプレーが遅れたり、止まってしまったりすると、運動量が落ち、負荷が下がるからです。トレーニングでは負荷を与えることと戦術を落とし込むことのバランスを意識しています。

「クリエイティブなプレー」を求め、選手たちの能力を伸ばそうと日々努めている片野坂監督 写真/佐藤俊彦

4人の監督の下での
指導者としての学び

──片野坂監督が現役選手時代に影響を受けた監督はいますか?

片野坂 私がサンフレッチェ広島でプロになって最初の監督となったスチュワート・バクスターさんです。バクスターさんのサッカーは非常にオートマチックで戦術がしっかりしていて、ポジションごとに役割がはっきりしていました。バクスターさんは攻撃では立ち位置を重視しており、私は左サイドバックでしたので「相手のサイドハーフと対峙する選手(味方)との関係性を把握しよう」と言われていました。例えば、オーバーラップするときは前線の状況を見てスペースを確認したり、前の選手(味方)が中央に入ったときは前にスペースがあるはずだから高い位置をとったりするなど、細かい部分まで状況に応じた決まりごとがあり、教わることが多かったのです。
 ほかにも、パスを受けたときに相手のプレッシャーがあった場合の対処法も教えてもらいました。当時、『アラウンド・コーナー』と呼んでいた動きでは、センターバックから来たボールをワンタッチで前線に送っていました。当時は高木琢也さんやイワン・ハシェックさんといった前線で起点をつくれる選手がいましたので、2人に目がけてワンタッチでパスを入れると、相手は予測しづらく、起点をつくれましたし、攻撃のスイッチにもなっていたのです。バクスターさんのときはチーム・コンセプトがしっかりしていたため、いい試合をして勝つことができていました。

──では、指導をする上で影響を受けた監督はいますか?

片野坂 これまで4人の監督の下でコーチをしてきました。4者4通りのやり方があり、それぞれのやり方を参考にしています。
 2007年にガンバ大阪で初めてトップチームのコーチを務めたとき、西野朗さんからは「プロ・コーチとしての選手との関わり方」を学びました。西野さんは選手をよく観察し、よく見ることで選手のコンディション面やメンタル面を読み取り、スタメン決定の際の選考材料にしていました。選手とのコミュニケーションも大事にしていました。
 10年から広島でコーチをするようになったときは、ミハイロ・ペトロヴィッチさんにサッカーの楽しさを教えてもらいました。攻撃のアイディアが豊富な方で、ビルドアップからゴール前での崩し方などは今も参考にしています。ペトロヴィッチさんのあとを継いだ森保一さんは、一体感を大切にする監督でした。選手だけではなくスタッフも含め、チームをまとめるのが上手でした。規律の部分もしっかりしていました。
 14年にもう一度、G大阪でコーチを務めたときは長谷川健太さんが監督でした。健太さんは勝利への意欲がとても強い方で、勝つためにさまざまな手段を使っていました。スカウティングの仕方としては映像を使うことが多く、選手に求めるプレーも映像でまとめたりしていました。中でも「4–4–2」システムでの守備はとてもオーガナイズされていて非常に参考になりました。監督1年目のときの4バックの守備は、守備ブロックのつくり方など、健太さんの守備を参考にしたものです。
 素晴らしい監督の下でコーチを務めたことで、指導の引き出しが増えたのは確かです。

──「コーチのままでいい」と言う指導者もいると思います。監督を志したのはいつ頃でしょうか?

片野坂 はっきりとは覚えていませんが、S級ライセンスを取得し、ゆくゆくはプロとして監督をしたいと漠然と思うようになりました。ただし監督は、オファーがないとできない仕事です。「そのときのために準備をすることが大事」と思っていました。S級ライセンスを取りに行かせてくれた大分から監督のオファーが届いたのは本当にありがたかったことだと思っています。大分にいつか恩返しをしたいと思っていたからです。

──オファーがあった当時の大分はJ2で残留争いをし、結果的にJ3に降格することになりました。大分で監督をやることに迷いはありませんでしたか?

片野坂 オファーをもらって考えたのは、「自分が監督としてどのような絵を描けるか?」でした。当時の大分のサッカーを見て、自分が経験してきたこと、コーチとして勉強してきたことを活かしてやりたいサッカーを大分でできるか、を考えたのです。「この選手ならこういうことができる」、「こういった戦い方ができる」と、自分なりにイメージでき、チャレンジしたい気持ちに変わっていきました。カテゴリーがJ2であろうとJ3であろうと、監督を引き受けようと思っていました。

片野坂監督はトレーニングにおいて、負荷を与えることと戦術を落とし込むことのバランスも意識している 写真/佐藤俊彦

試合の主導権を握り
「3-0」で勝つ

──07年にG大阪でコーチをする前に、大分では04年から2年間スカウトの仕事をしていました。指導者となる上で役立った点はありましたか?

片野坂 選手を見る目が養われましたし、育成年代の指導者に会い、コミュニケーションを図ることで人脈を広げることができました。最初の1年は大分U–18へのスカウトをするためにU–12年代とU–15年代の試合を見ました。そのときに清武弘嗣・選手と小手川宏基・選手のプレーを見ていました。あの頃の2人は大分県ではズバ抜けた存在で、「中学生でこんなにうまい選手がいるのか」と思っていました。大分U–15にいた清武選手はテクニックがあり、技術も高かったです。スピード面やフィジカル面で大分U–18に上げてもついていけないかもしれないとも考えたのですが、高校へ行ってどう伸びるかも分かりませんでしたし、「いい選手は自分たちのアカデミーで育てていくべき」という強化部の考えもあり、大分U–18への昇格を決めたのです。小手川選手はU–15年代ではタウンクラブであるカティオーラFCに所属し、一人違いを見せていました。身体能力が高く、大分U–18に入ってもすぐに力を発揮していました。
 スカウト2年目は高校と大学の試合を見ていました。その中で森重真人・選手や高橋大輔さんをスカウトしました。森重選手にはスケールの大きさとダイナミックさを感じました。フィジカルが強く、パンチ力もありました。当時はボランチでプレーしていたのですが、将来的にはディフェンダーもできる選手だと思っていました。大輔さんはハードワークができ、身体能力がありましたので、プロで通用すると思いました。

──監督とスカウトとでは選手を見る視点は異なるのでしょうか?

片野坂 スカウトのときは技術や身体能力などのトータルな部分、キック力や体の強さなどの武器だけでなく、「プロの世界で通用するか?」などといった点を見ていました。監督になってからは、「チームにいかにフィットできるか」を選手評価の第一基準としています。私は、頭を使い、賢くクリエイティブなプレーができる選手を求めています。攻撃では先手をとったり、駆け引きで背後をとったり、守備では予測して対応できたりすることなどを重視しています。

──「クリエイティブなプレー」とは、選手の考え方によって改善できる部分なのでしょうか?

片野坂 賢い選手は指導者が言ったことに対してチャレンジすることができます。チャレンジするからこそ、自分の身にもなるのです。何も考えずに体で表現する選手は、いくら指導しても指導者が求めることを理解できないでしょう。そのような選手がプロになっても、考える下地がないので、監督が求めるプレーができないことのほうが多いのです。フィジカルを鍛えるよりも、クリエイティブなプレーができるようになることのほうが難しいですし、取り組んでほしいと思う点です。
 サッカーは判断を求められるスポーツであり、頭を使うスポーツです。私が思うに、現代サッカーでは、味方の状況と相手の変化を見た上で、いいポジションをとったりする判断を行なえなければ通用しません。そのため、考えてプレーすることが習慣化されていない選手には諦めずに、根気強く何度も同じことを言い続け、考えてプレーすることが習慣となるように導かなければいけません。大変な労力がいることでもありますので、ぜひ、育成年代から意識させてほしいと思っています。

──現役時代は広島(94年)で、コーチ時代は広島(12年と13年)とG大阪(14年)で優勝を経験しました。勝つチームに共通項があるとすれば何でしょうか?

片野坂 一体感だと思っています。勝っているときはチームがうまく機能していますし、勝っているからこそ不協和音が出ないのかもしれませんが、チームが勝っているときは全員が一つになっていました。紅白戦を行なったときも、控え組がレギュラー組のために対戦相手を想定したりして、チームが結果を出すために自分たちができることをやってくれていました。
 残留争いなどの厳しい状況を経験したことがないので分かりませんが、人は良くない状況になればなるほど本性が出るものです。そのときに「チームの一員としてどう振る舞うのか?」が大切です。不平不満があればチーム内で解決しなければいけません。さまざまな意見があってもいいと思いますが、最後はチームのためにできることをしなければいけません。そのような姿勢を個々が見せられるチームが強いのだと思います。

──チームづくりにおいて欠かせないことや譲れないものはありますか?

片野坂 サッカーには正解がありません。試合が終わらないと結果も出ません。だからこそ、勝利だけではなく、自分たちの戦い方をして勝ち点3をとることを追求していきたいです。90分間、自分たちのサッカーをし、主導権を握りたいのです。私の理想は「3–0」のスコアで勝つことです。

(取材・構成/柚野真也)

まだ40代ながら、指導者として多くのことを経験してきた片野坂監督 写真/佐藤俊彦

PROFILE
片野坂知宏(かたのさか・ともひろ)/ 1971年4月18日生まれ、鹿児島県出身。Jリーグでは左サイドバックとして、サンフレッチェ広島、柏レイソル、大分トリニータなどでプレーした。2003年に現役から退いたあと、大分のスタッフとしてスカウトとU-15コーチを務める。07年からガンバ大阪と広島でトップチームのコーチを務め、12年から3年連続でリーグ優勝を経験した。16年に当時J3だった大分の監督に就任。1年でJ2に復帰させると、18年はJ2で2位の成績を収め、J1昇格を決めた

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