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2018-05-21

全国に伝えた「SOS」 地域の力になった熊本国府

約2年前の2016年4月14日21時26分、熊本県を中心に大規模な地震が発生した。現在も復旧・復興の途中だが、ここでは当時、この大地震の被害から立ち上がろうと奔走していた熊本県の強豪・熊本国府高校サッカー部の取り組みを追う。自分や家族の身を守ることに専念すべき状況だった中、彼らはどのようにして「地域の力」になったのか――。
※取材は2017年2月に実施。肩書、学年、ポジション等は取材時のもの
(出典:『サッカークリニック』2017年5月号)

※上のメイン写真=2016年4月の熊本地震の発生直後、率先して地域住民の力となった熊本国府高校のサッカー部員だった(取材時。写真左から)高原悠太、野田拓海、渡辺智貴の3人。「SOS」の椅子は彼らの後方にあるゴール裏のスペースに並べられた
写真/吉田太郎

(写真左から)佐藤光治・監督と佐藤秀樹・総監督の2人は、被災後さまざまな状況下にいた選手たちをまとめ、直後のインターハイ熊本県大会で優勝に導いた 写真/吉田太郎

大きく取り上げられた
「SOS」の文字

 地震によって深刻なダメージを負った熊本県。しかし、高校生たちの姿は頼もしかった。
 2016年4月の大規模な地震発生後、状況確認や支援物資を配布するために各避難所を回っていた熊本国府高校の佐藤秀樹・総監督は至る所で自発的にボランティア活動を行なっていた高校生たちの姿を見たと言う。
「ウチの生徒たちだけではなく、熊本の高校生はたくさん動いていた。明るい未来が見えました。『高校生ってすごいな』と感じました」
 熊本地震から10カ月が過ぎた17年2月、乗用車で熊本市内を通った際に筆者が感じたのは、熊本の震災復興はまだ途上だということだ。ひびが入ったままで補修中の道路やシートのかかった住居の数々。インターハイ予選決勝の舞台などで活用されていた水前寺競技場のスタンドは地震の影響で土台の一部が崩れたままだった。「街のシンボル」である熊本城の復旧まで20年かかるとも言われるように、元の姿を取り戻すのは時間のかかる作業だ。
 だが、多くの人たちが勇気を与えられ、日常に近い生活を取り戻していた。高校生たちの行動はその力の一つになった。
 16年4月14日21時26分、熊本県を中心に大規模な地震が発生した。熊本国府のサッカー部員にとってはごく普通の日常生活の中で遭遇した未曾有の経験だった。当時、自主練習後の帰宅途中に被災したMFの渡辺智貴は危険な箇所を通らなければならない状況もあって自力で帰宅することを断念し、車で迎えに来た父親と合流したのは深夜0時を回っていたと言う。DFの野田拓海は整骨院での治療後、帰路の瓦礫撤去も手伝いながら3時間かけて歩いて帰宅した。キャプテンでFWの高原悠太は最初の大規模地震後、1週間も車中泊を経験した。
 翌15日は休校となった。一時は地震活動が収束したかと思われたが、16日1時25分にマグニチュード7.3という最大の地震が発生してしまい、選手たちは完全に日常を奪われてしまった。
まずは自身の、家族の身を守ること。誰もがそれに専念すべき状況だった。その中で熊本国府のDF野田の起こした1つの行動が大きな反響を呼び、地域の人々を救う。
 学校のすぐ近くに自宅がある野田は16日の大地震後、家族とともに熊本国府の校庭に避難して車中泊。朝を迎え、体育館に行ってみると、そこはほとんど準備もできないまま駆け込んで来ていた避難者で溢れていたと言う。トイレの紙や生活用水が足りず、食事がない。
「『どうにかできないか』ということで、(上空に)ヘリコプターなどが飛んでいたので気づいてもらえればと思いました」
 野田が発案したのは校庭に「カミ パン 水 SOS コクフ」という大文字のメッセージを記すことだった。電話で佐藤総監督の許可を得てラインカーで文字を書き、より目立つものにするためにパイプ椅子約200個を並べて作成した「SOS」は、避難住民の積極的な協力もあって1時間で完成した。
 当日は反応がなく諦めかけていたが、翌17日、彼らの行動は多くのメディアに取り上げられることになる。
「パイプ椅子で『SOS』の文字」
 メディアがそのメッセージを報じると、あっという間に情報は拡散され、物資が一気に熊本国府に集まるようになった。 
「目の前で苦しんでいるお年寄りや子供たちのために何かしたい」。それだけを考えて起こした野田の行動に対して「野田はやるときはやる人間。野田らしいなと思いました」(高原)。
当時、熊本地震は大きく報道されていたが、それは被害が特に大きかった益城町を中心としたものだった。そのために全国からの支援物資も被害の大きかった地域へ集中した。その中で表に出ていなかった各地の避難所と大多数の被災者の苦しみ、本当に必要としているものが全国に伝わった。
 支援物資は想像を遥かに越えるような量が集まった。熊本国府の選手たちは渡辺を中心にそれを仕分け、避難所となっている小学校に躊躇することなく電話して、「どこに、何が足りていないのか」をピンポイントに確認。物資を各避難所に届けるため、コーチ陣の車に積み込み、手の空いた選手は物資を自転車の荷台に乗せたり、リュックサックに背負って片道10km以上あるような道のりも走り回った。
 報道でその行動が注目され、物資が集中したことに対して周囲からは「何でお前らだけ」という批判の声もあったというが、彼らが抱いていたのは、「自分たちだけ良ければいい」や「目立ちたい」ではなく、純粋に「困っている人を助けたい」という思いだけだった。
 コーチ陣とともに物資を運び、大渋滞の帰路では疲れ切って車中で寝てしまうこともしばしばあった。もちろん、彼らだけでなく、他校の生徒や教職員もいろいろな場所で地域を支えていたが、いずれも強制されたわけではない。
「(国府の選手たちは)何だかんだ言って、人の役に立てることを求めていたのかな」(佐藤総監督)
 地元住民の感謝の言葉を聞いた佐藤総監督から「喜んでくれる人たちがいる。自分の行動に自信を持っていいぞ」と後押しされた選手たちは、5月10日の学校再開まで、被災して動くことのできない選手は身近な手伝いを、動ける選手は先頭に立ってボランティア活動を続けた。

2016年度のインターハイ熊本県大会の優勝時 写真/吉田太郎

多くの部員を変えた
ボランティア活動

 彼らは日常生活とサッカーも取り戻さなければならなかった。
 コーチ陣は4月28日に集まることのできる選手たちだけで自主練習を再開させる。だが、地震発生後、トレーニングしていなかった選手たちの動きは想像以上に悪かった。走れない。また、すぐにはモチベーションも上がらなかった。
 渡辺は「『体を動かせ』と言われていたけれど、それどころではなかった。サッカーを忘れていました。(この状況で)何でサッカーをしなければいけないのかなと思って……」と振り返る。
トレーニングはランニング中心のきついメニューが続く。選手たちは心に迷いを抱いたまま、急ピッチでコンディションの回復を図った。
 その中で、当初は危ぶまれていたインターハイ予選(16年度)も開催されることが決定した。目標を持つことができ、彼らは以前よりもトレーニングに集中した。
「逃げ出したり、辞めたりしてく仲間もいるかなと思って心配していました。でも、自分たちで無理してでも声を出してやってやろうとしてくれました」(高原)
 地震は多くの苦難を人々に与えた。しかしその苦難は熊本国府の選手たちの心を変えた。中でも最も変わったのはボランティア活動の牽引役、渡辺だった。
「(ケガもあって控えが続き)インターハイで辞めようと思っていたので心が不安定になっていました。でも『(地震後)サッカーをやる』となったときに気持ちがものすごく入ったのです。取り組む姿勢が思い切り変わって1カ月の成長速度がすごかったのです。気づいたらあっという間に試合に出られるようになりました。『心の成長』なのか分かりませんが、サッカーで勝手に成長していった感じです」
 震災の影響に苦しむ人たちと助け合い、またサッカーに戻って来たときに自身も周囲も驚くほどの成長を遂げていた。ドイス・ボランチの一角に入った渡辺はインターハイ予選(16年度)でMVP級の活躍を見せた。「勝って恩返しを」の思いを持って高原や守備の柱であるセンターバックの久野龍心、GKの生田千宝、右サイドバックの北脇拓海、センターバックの藤田海輝、左サイドバックの尾上りつき、MFの坂本幸広、池本葵、杉田達哉ら3年生(16年度)が中心になって戦った熊本国府はインターハイの出場権を獲得した。
 当初、16年度の3年生の世代は、1つのまとまることに関して指導者から注意されることが多かったと言う。それが震災時には普段は試合に出ていなかったり、円陣でも後ろ寄りに立っているような選手たちが率先してボランティア活動をした。
「別人になったように人が変わりました。『こいつ、ボランティアやるんだ?』という仲間もボランティアをやったりしていました。人として、全員が変わったと思います。だからきつい時期も乗り越えることができましたし、インターハイの熊本県大会でも優勝できたと思うのです」(高原)

2017年2月の取材時、新2年生(当時)のトレーニングが行なわれていた 写真/吉田太郎

「引退後」も続けた
地域の子供との関わり

 熊本国府には入学時に、「部の考え」として選手たちに伝えられることがある。
「人にいい影響を与える、応援されるチームになる」
 1年生のときにはその意味を理解している選手は少なかった。
 熊本国府は100人を越える部員が同校から練習場のある合志市まで10キロ以上の道のりをほぼ毎日自転車で移動している。大移動は地域の人々に迷惑をかけて苦情を受けることもあった。だが、3年間厳しい練習で技術と人間性を磨いてきた選手たちは熊本国府が大切にしているものを自然と身につけていた。
「『応援されるチームって何?』、『優勝すれば応援されるんじゃないか?』と思っていました。でも、全国大会に出るときに、みんなからのメッセージや『頑張れ』という言葉を見て、これが応援されるチームだと気づいたのです。自分たちにできることをやったら、応援されるチームになりました」(野田)
 注目を集めた分、彼らが他校の生徒たちよりもボランティア活動に時間を割いていたことは間違いない。インターハイ予選(16年度)はチームの一体感も後押しにして優勝することができたが、「熊本の人たちを勇気づける」と誓って臨んだ16年度のインターハイ(全国大会)は鹿島学園高校(茨城県)にPK戦で敗れて初戦敗退となった。「今度こそ」の思いを持って戦った全国高校サッカー選手権大会の熊本県予選(16年度)は決勝まで勝ち上がったものの、ルーテル学院高校に延長戦の末に敗れてしまった。
「あと一歩」の敗戦の連続――。彼らはサッカーでの目標を達成することはできなかった。その脳裏に「ボランティアに割いた時間にもっとトレーニングができていれば」という思いはなかったのだろうか? その問いに対して高原は「インターハイで負けたときも選手権の予選で負けたときもそんなことは思いませんでした。自分たちの実力不足です。それだけでした」と言い切る。自分たちの行動に後悔はまったくなかった。
「地域のために」という活動は彼らの高校でのサッカー引退後も続いた。16年の年末、熊本国府の選手数人は仮設住宅の子供たちとの交流イベントに参加し、サッカーをした。それをきっかけに今年も子供たちとサッカーをする機会をつくり、一緒に走り回ったと言う。
「『楽しく遊ぼう』くらいの気持ちで行ったのですが、サッカーをしたり、肩車をしただけで子供たちはすごく喜んでくれました。『また来てね』と言ってくれましたし、仮設住宅の子供たちと遊ぶことが支援につながるんだ、と思いました」(渡辺)
 卒業後、バラバラとなる仲間とともに活動することはできなくなるが、それでも彼らは地域をサッカーで笑顔にする方法を学んだ。
「熊本地震は忘れられた感じになっていますが、まだ苦しんでいる人はいますし、自宅に帰れない人もいます。そういう人たちを『どう勇気づけられるか』を考えていきたいです。僕たちが行けば、逆に勇気を与えられることもあるのです」(野田)
 人に影響を与えることのできる人間になって彼らは高校を卒業する。
「今までの国府で最もいいチームだったんじゃないかと自信を持って言えますし、この年代に生まれて良かったと思っています。この年代のキャプテンをやらせてもらったことはいろいろな人に感謝しないといけないですね。この3年間は自分にはもったいないくらいの3年間だったと思います」と高原は語る。
 佐藤光治・監督は彼らへ向けて言う。
「よく頑張ってくれたと思います。大きな地震の中で彼らはしっかりとまとまることができました。まとまることの重要性に気づいてくれたと思います。『熊本国府のOBです』と胸を張れるように、部としても発展していかないといけません」。
 どこにいても、仲間と団結して、人にいい影響を与えられるように――。彼らは今後の人生でもこの経験を決して忘れず、行動に自信を持って歩き続ける。

取材・構成/吉田太郎

2017年2月の取材時、「国府魂」と書かれた石碑のあるグラウンドで汗を流していた新2年生(当時)。佐藤監督は「『熊本国府のOBです』と胸を張れるように、部としても発展していかないといけません」と誓いの言葉を話した 写真/吉田太郎

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