close

2025-11-26

【アイスホッケー】スターズ神戸とアイスバックス⑥外崎慶監督

SHARE

  • twitter
  • facebook
  • line

試合後、スタンドにあいさつする外崎慶監督。左は弟の潤アシスタントコーチ(元日本製紙クレインズDF)。かつては札幌で「日本一の中学生チーム」雪印ジュニアを引っ張る選手だった(ⒸSTARS KOBE)

全ての画像を見る
今季からアジアリーグに加盟した「スターズ神戸」。ここまで11試合を行なっており、11月20日現在、勝ち星を挙げるには至っていない。11月29日・土曜日は16時から、30日・日曜日には14時から、地元・兵庫の尼崎スポーツの森アイススケートリンクで、前身の古河電工チームを含めて創部100年の「栃木日光アイスバックス」2連戦が予定されている。スターズには日光にゆかりのある選手やスタッフが多く、いっそう気持ちが高ぶっているようだ。スターズ神戸の外崎慶(とのさき・けい)監督は、2011-2012シーズンから3年間、アイスバックスでプレーしている。今月末の戦いを前に、話をうかがった。

前半戦で、チームの形ができてきた
「試合に勝つ資格」が出てきたと思う

 今月29、30日のアイスバックス戦を前に、スターズの外崎慶監督は忙しかった。今週の月曜まで、日本代表プログラムの「男子アジア選手権」(中国・北京)に、アシスタントコーチとして遠征してきたのだ。

「ナショナルの選手の思いの強さ、主体性。それを強く感じました。スターズの選手も20代前半の選手が多いので、そこは見習う部分があると思いましたね」。25歳以下の日本代表を指導していても、やはり心の中には、自分のチームのことがあるのだ。

 9月に開幕したアジアリーグ。スターズはこれまでに11試合をこなしてきた。

「よくなっているのが、戦術の理解度。課題は、パスや守りのポジショニングです。短いスパンで改善できるものではないので、日々の練習から上げていく必要があると思います」

 外崎監督に、ポジションごとに目立った選手を上げてもらった。

「ゴーリーはジャン・ガラム。技術的にいいものがありますし、サイズもある。出る試合ごとに、試合に勝つチャンスをチームに与えてくれる選手だと思います。DFは5ゴールを上げている渡邉亮秀。DFですが、攻撃で頑張ってくれているのは、チームの力になっています。FWは…正直言うと物足りないのですが、しいてあげるなら川岸潤。チームのクッションになれる選手で、トップレベルのホッケーから離れていましたが、状態が上がってくると、より楽しみになる選手です」

 ここまで11試合を戦って、白星はなし。だが、「そう遠くないうちに勝ち星を得られるはず」だという。

「9月の横浜グリッツ戦は、第2戦で延長に持ち込みましたが、プレー的に、勝つ資格はなかったと思うんです(スコアは2-3)。それよりも、尼崎のレッドイーグルス戦の4回戦(1-2)、HLアニャンとの3回戦(2-4)は、チームが勝つ資格はありました。試合の最後に苦しい場面でも踏ん張れたり、判定を含めたアンラッキーな場面をはね返していければ、試合に勝つ資格を手にできると思うんです」

 月末のアイスバックス2連戦についても、聞いてみた。「アイスバックスは攻撃が特徴のチームです。ウチは点の取り合いで勝てるチームではありません。ロースコアに抑えれば勝つチャンスがある。そう思っているんです」。

 10月、アウエーのレッドイーグルス戦で。現役時代の2011-2012シーズン・プレーオフファイナル第1戦では、アイスバックスのFWとして、勝利につながる先制点を挙げた(ⒸSTARS KOBE)
10月、アウエーのレッドイーグルス戦で。現役時代の2011-2012シーズン・プレーオフファイナル第1戦では、アイスバックスのFWとして、勝利につながる先制点を挙げた(ⒸSTARS KOBE) 

リンクの空気が揺れた、霧降劇場
「人生の中でも特別な試合だった」

 あれは確か、1997年の1月だった。札幌の雪印スケートセンターで「外崎慶少年」を取材したことがある。当時は中学3年生。その日は雪印と王子製紙の間で正月恒例の「HBC杯定期戦」があり、その前座として「雪印ジュニア」と「王子ジュニア」の試合が行われていたのだ。

 外崎の父は、岩倉組と雪印で活躍した外崎一馬さん。日本代表の中心DFであり、雪印の監督まで務めた人物だ。エリートの血筋を持つ、外崎慶と弟・外崎潤。当時の中学ホッケーは苫小牧や釧路ではなく、向かうところ敵なしの「札幌の雪印ジュニア」の時代だった。なかでも外崎兄弟は注目の的だった。

 インタビューに、外崎慶少年が答える。

「僕、高校はカナダに行くんです」

 外見は、15歳の少年とは思えなかった。大人びた、ともすれば「ませた」若者のように映った。選ばれし者というのは、総じて早熟な空気をまとっている。そう感じたものだ。

 カナダに行っていた外崎慶少年は、やがて日本に戻ってくる。コクドからSEIBUプリンスラビッツ、そして王子イーグルスへ。日本に帰ってきてからも、彼はエリートなんだと思った。そして2011-2012シーズンから「日光アイスバックス」に移籍する。

 その2011-2012プレーオフ。セミファイナルでアイスバックスは、当時のアニャンハルラに2連敗のあと3連勝する。ファイナルの相手は、1年前まで外崎がいた王子だった。

 苫小牧・白鳥アリーナ(当時)の第1戦。4分に先制ゴールを挙げたのは外崎だった。その後は点の取り合いになり、6-4でアイスバックスが先勝。第2戦からは王子の3連勝で幕を閉じたが、第4戦、霧降アイスアリーナは観衆2000人、満員札止めになった。「霧降劇場」の名が広まるきっかけとなった試合だ。

「今でも覚えています。プレーオフの第4戦は、僕のホッケー人生の中でも特別な試合でした。霧降のリンクが、まるで揺れるような声援で…」

 いい機会だ。1997年、15歳の「あのころ」についても聞いてみた。当時の外崎少年は、どんな思いでホッケーをやっていたのか。

「アイスホッケーで、この道を突き進む。そんな気持ちは、さらさらなかったんです。信念を持って、ホッケーをやっていたわけではなかった。カナダに行ったら、日本にいるよりもうまくなれる。そんなふうに漠然と考えていたんですよ。当時は遊び時間をトレーニングに変えてとか、そんな思いはなかった。自分で振り返っても、あれでよくホッケー選手になれたな…という感じなんです。アイスホッケーを本気でやらないといけない。そう思うようになったのは、恥ずかしい話、日本に帰って、コクドでプロに入ってからなんです。でも、そういう経験があったから、今の年齢(43歳)までアイスホッケーに携わっているのかもしれません」

 外崎監督は、神戸にスターズが誕生した時に、「いったい誰が監督をやるのかな?」と思っていたそうだ。「まさかと思いましたが、自分に話が来たので、びっくりしました。でも、イチからチームをつくり上げるのは、自分でもやってみたかったんですよ」

 この日も外崎監督は忙しく、だけど楽しそうでもあった。札幌に家族を残しての単身赴任。僕はエリートじゃなかったと外崎監督は言っていたけれど、この関西初の「プロ」チームの監督が、よく似合っているように思うのだ。

※11月29日(土)と30日(日)の「スターズ神戸」と「H.C.栃木日光アイスバックス」2連戦の詳細は、スターズ神戸の公式サイトをご参照ください。

外崎慶監督

外崎慶 とのさき・けい
スターズ神戸・監督。1982年4月11日生まれ、北海道札幌市出身。岩倉組と雪印で名DFとして鳴らし、雪印監督を務めた一馬さんを父に持つ。中学生のころは弟・潤(元日本製紙クレインズ)とともに雪印ジュニアで連戦連勝の黄金時代を築いた。中学卒業と同時にノートルダム高校に進み、ビーバー・バレー・ナイトホークス(KIJHL)を経て、2001-2002シーズンに日本リーグのコクド入り。その後はSEIBUプリンスラビッツ、王子イーグルスを経て、2011-2012シーズンから3年間、日光アイスバックスでプレー。2014年限りで現役引退する。スターズ神戸の監督に就任する前は、日本アイスホッケー連盟のU18監督を6シーズン務めている。

山口真一

PICK UP注目の記事

PICK UP注目の記事



RELATED関連する記事