前回のコラムでも書いたように「週刊ベースボール」の表紙に起用されるのはスター選手に限られるのですが、時間の経過とともに往時の人気が忘れられている選手も出てきます。今回紹介する荒川堯もそんな選手の1人ではないでしょうか。
同選手はドラフト史に残る大事件「荒川事件」の当事者なのですが、荒川がごく短い期間で球界を去ったこともあって、この事件も風化している感があります。69年秋のドラフトの目玉だったのが「早稲田のON」と並び称された荒川と谷沢健一でした。両者の打撃成績を下記に記しますが、これがものすごい。
荒川 堯 268打数90安打、打率.336(歴代9位)19本塁打(歴代6位タイ)43打点谷沢健一 308打数111安打、打率.360(歴代2位)18本塁打(歴代8位タイ)63打点※打率は300打席以上の打者が対象69年当時の東京六大学の最多本塁打記録は田淵幸一の22本で、荒川の19本が歴代2位、谷沢の18本が歴代3位でした。谷沢の打率.360は当時歴代1位の記録で、後年早稲田の後輩・岡田彰布が打率.379でこれを塗り替えます。
同年ドラフトでは「いの一番」で中日が谷沢を指名、2番目は新興の東海大を大学日本一に導いた上田二朗を阪神が指名、そして3番目の大洋(現・DeNA)が「巨人かアトムズ(現・ヤクルト)以外はお断り」としていた荒川を果敢に指名したのです。
荒川の父親は王貞治に「一本足打法」を指導したことで知られる荒川博で、当時も巨人のコーチを務めていたこともあり巨人と慣れ親しんだ神宮球場を本拠とするアトムズを希望球団に挙げていたのです。「父親」と書きましたが、実は血のつながった親子ではなく、長野県北佐久郡岩村田町(現・佐久市)在住の天才少年・出澤堯を養子に取り、自らと同じ早実から早大へと進ませたのですから、すごい話でしょう。
大洋の当時の球団代表・森茂雄が元早大監督ということもあり、どうにかなるだろうと指名したわけですが、荒川の拒否の姿勢は固く、交渉は打ち切りに。翌70年1月には荒川が大洋ファンと思われる2人の暴漢に襲われ、棍棒状のもので殴打されるという事件が発生。この際のケガが荒川の選手生命を絶つことになってしまいます。
ところが、ドラフトの交渉期限ギリギリの10月になって荒川は急転、大洋と契約。ヤクルトへのトレードを前提としての契約では? との密約説が流れ心配したセ・リーグ会長の鈴木龍二の勧めもあり荒川は大洋のユニフォームを着て練習を行い、その際の写真が「週刊ベースボール」の12月21日号の表紙を飾ります。
通巻673号(1970年12月21日号)当時の宮沢俊義コミッショナーも「三角トレード不可」を匂わせたものの、同年末に荒川のヤクルト移籍がまとまります。翌71年には今度はヤクルトのユニフォームをまとって「週刊ベースボール」の表紙に再び登場します。荒川はプロ2年目の72年には打率.282、18本塁打をマークしますが、73年以降は暴漢に襲わられた後遺症で視力が低下。75年4月に現役引退を表明します。
通巻673号(1970年12月21日号)大学時代の成績から推測するに、荒川がアクシデントなく現役生活を全うしていれば盟友・谷沢と同程度の成績を残していたと思われます。名球会クラスの選手を1人失ってしまったのですから、プロ野球にとっては痛恨事であり、残念でなりません。
No.065 荒川 堯
当コラムは、これまで「週刊ベースボール」の「Curutural Review」のページに掲載されていたカードのコラムを転載していたのですが、2001年春から続いていたこの連載が2024年4月1日号をもって終了しました。今後、当コラム「カード春秋」(※)はBBMカードサイトのオリジナルコラムとして続けていこうと考えておりますので、よろしくお願い致します。※「カード春秋」というタイトルは、わたしの出身校・香川県立高松高校(旧制・高松中)の大先輩にして、文藝春秋社の創設者である菊池寛先生へのオマージュなのです。