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2026-06-26

アンドレ・ザ・ジャイアント「14年ぶりのギブアップ負け」を“献上”した猪木へのリスペクト【プロレス史あの日、あの時1986年6月17日/週刊プロレス】

アンドレの改名後初のギブアップ負けを報じた週刊プロレス1986年7月8日号(No.152)。週刊プロレスmobileプレミアムで配信中

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1986年6月17日
IWGP王座決定戦Aグループ◎アントニオ猪木vsアンドレ・ザ・ジャイアント@名古屋・愛知県体育館

アンドレ・ザ・ジャイアント(=本名ルネ・ロシモフ)は1946年5月19日生まれ。デビュー時期については諸説あるが、欧州のヒストリアン連中の多数意見では1964年春、18歳の時だったという説が最も信憑性が高い。初来日は1970年1~2月の国際プロレスで、その時のリングネームは「モンスター・ロシモフ」。以降、1971年3~5月、1972年3~5月と3年連続で国際に来日しているが、それぞれの被フォール数と相手、決め技を列挙してみよう。まず1970年の初来日(23歳)ではシングルマッチ(45分3本勝負)の2本目でストロング小林の逆エビ固めにギブアップ(試合は1対1からロシモフの反則負け)。その他にタッグマッチで5回のフォール負けを喫している(小林に1回、グレート草津に1回、サンダー杉山に3回)。1971年の2度目の来日ではビル・ロビンソンの逆片エビ固めにギブアップ2回、カール・ゴッチの逆エビ固めにギブアップ1回、ゴッチのジャーマン・スープレックスによる被フォールが2回あった。日本人選手には全くフォールを許していない。1972年の3度目の来日ではS・小林の逆エビ固めによるギブアップ12回、ラッシャー木村の逆エビ固めによるギブアップ3回、杉山の逆エビ固めによるギブアップ1回のほか、小林とイワン・バイテンに体固めで1回ずつフォール負けも献上している。「モンスター・ロシモフ」の名前で来たのはここまでで、1973年3月にビンス・マクマホン・シニア(WWWF)と専属契約を結んで「アンドレ・ザ・ジャイアント」と改名してからは一回もフォール、ギブアップを取られずに13年以上も無敵を誇り、「世界の大巨人」として名声をほしいままにした。この「無敵期間」における来日先は全て新日本プロレスだったので(うち2回は新日本の仲介で国際にサブレット・ブッキング)、この期間には「アントニオ猪木、坂口征二、藤波辰巳、長州力らがアンドレからフォールを取ることは、永遠に無理だろう」との諦念(あきらめ)が日本のファンに定着していた。私自身も、そう強く感じていた一人である。

本稿の試合は余りにも有名な「アンドレ初のギブアップ」だが、前述したように「アンドレに改名してから初のギブアップ献上」であり、キャリアの中で最初にギブアップしたわけではない。アンドレのプロレスラー・キャリアは1964年から1992年の28年だったので、猪木へのギブアップ負けは「キャリア22年、40歳の時点」だったことになり、冷静に吟味してみると「いくらアンドレでも、このあたりでギブアップして当然」という晩年であったことも事実。猪木の偉業を貶める意図は毛頭ないが、両ヒザや背骨に常時痛みを感じながらリングに上がっていたアンドレ本人の中で「そろそろ、誰かにフォールかギブアップを奪われて、楽になりたい」という気持ちが大きくなっていたことも間違いない。「楽になるとすれば、大殊勲を与えるべき相手は誰なのか?」と自問自答したとき、その相手は躊躇なく、アントニオ猪木だったということ。もっと極論すれば「猪木以外には、誰にも大殊勲を挙げさせたくない」というのがアンドレの本音だった。このシリーズがアンドレにとって最後の新日本参加だったこともあるだろう(その次は1990年4月の「日米レスリング・サミット」。そのあと急死直前までは全日本プロレス)。「猪木への餞別」と書くと安っぽくなってしまうかもしれないが、リング上で死闘を繰り返してきたライバルへの餞別として「ギブアップ」を叫んだあたり、いかにもフランス人らしいエスプリではなかったか?

流 智美

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