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2020-01-10

【連載 名力士たちの『開眼』】 小結・大潮憲司編 “忍の一字”――幕内エレベーター13回の勲章[その1]

――やっぱりオレは、力士に向いていないのかもしれないなあ。

※写真上=通算出場1891回、史上最長の記録を樹立した大潮
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

大化けさせた幕下5人抜き

 最近、大潮(最初の四股名は本名の波多野。入門8年目の昭和44年夏場所に大潮に改名した。ここでは便宜上、大潮で統一)は一人でいると、いても立ってもいられない気持ちになることが多い。

 中学2年の12月25日、ちょうどクリスマスの日に、北九州市の八幡から時津風部屋に入門し、あと2カ月もすると7度目のクリスマスがやってこようとしているのに、いまだ4年もいる幕下の壁を破るメドすら立っていないのだ。

 どうしてこんなに大潮を取り巻く霧は深いのか。稽古はちゃんとしているし体もまずまず。とすると、思い当たるフシは一つしかない。まだ入門前、中学の相撲大会で土俵の横の水たまりを指さして、

「先生、ここに投げ飛ばしたら濡れるじゃないの。止めようよ」

 と相撲の先生に中止を申し出たというエピソードでも分かるように、食うか食われるかのプロの力士になるには気が優しすぎるのだ。しかしこればかりは、いくら稽古しても直しようがない。

 季節は秋。当時、10月になると大阪で準場所があり、悶々としていた大潮は、巡業の呼び物である「幕下5人抜き」の時津風部屋代表に選出された。そのころの大相撲界は、今よりずっと部屋別の対抗意識が強く、大潮も出番前、兄弟子の北葉山や時葉山らに、

「オイ、負けたらどうなるか、分かってるだろうな」

 と激励というよりも脅しをたっぷりかけられている。負けると翌日の朝稽古で足腰が立たなくなるまでかわいがってやる、という意味だ。その怖い兄弟子たちが花道の奥にズラリと並んで見物している。

 この種の脅しに先天的に弱かった大潮はとても相撲どころではなかったが、負ければ半死半生のしごきが待っているだけに、死物狂いで相手の胸をめがけて突っ込んでいった。大潮の相撲は、すでに三段目のころから右を差して一気に突っ走り、行司の「ハッケヨイ」という声がかかる前に勝負がつけば自分の勝ち、それ以上長引けば負け、という明快な速攻相撲だった。

 その前に出るパワーが、このときの異常な恐怖感にかられているのでいつもの何倍にも。この日、この5人抜きに出場していた他の部屋代表の高見山や魁傑らは、ただアンラッキーという以外になかった。大潮は、5人目の高見山の突っ張りを顔面に受け、左の上唇に二針縫う裂傷を負ったが、それをはねのけて寄り切り、見事5人抜きを達成したのだ。

 ――死ぬ気でやれば、オレだって勝てるんだ。あきらめるのは早いかもしれないな。

 花道を引き揚げてきた大潮は、

「よくやった」

 と背中に兄弟子たちの手荒い祝福を受けながら、自分を見直し始めていた。思いがけないところで、やっと人間を大化けさせる“自信”というものに巡り合うことができたのである。大潮が長い幕下生活を卒業し、待望の十両に昇進したのは、それから1年後の44(1969)年九州場所のことだった。(続)

大潮憲司

PROFILE
大潮憲司◎本名・波多野憲二。昭和23年1月4日、福岡県北九州市八幡東区出身。時津風部屋。186cm134kg。昭和37年初場所、本名の波多野で初土俵。44年夏場所、大潮に改名。同年九州場所新十両。46年秋場所新入幕。最高位小結。幕内通算51場所、335勝413敗17休。敢闘賞1回、技能賞1回。63年初場所に引退し、年寄錣山から式秀を襲名。平成4年独立し、茨城県龍ケ崎市に式秀部屋を創設。平成25年1月、停年退職。

『VANVAN相撲界』平成7年1月号掲載

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