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2026-08-14

“WWFの看板”ボブ・バックランドが新日本へ「頻繁な短期遠征できた」二つの理由【プロレス史あの日、あの時1982年8月5日/週刊プロレス】

バックランドと藤波のWWFヘビー級選手権を報じた「プロレス」1982年9月号(週刊プロレスmobileプレミアムで配信中)

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1982年8月5日
WWFヘビー級選手権試合◎ボブ・バックランドvs藤波辰巳@蔵前国技館
 
今から8年前の2018年4月、藤波辰爾が主宰する「ドラディション」が元WWFヘビー級王者のボブ・バックランド(1949年8月14日生まれ、当時68歳)を招聘し、東京と大阪で興行を打ったことがあった。私は藤波ご夫妻からバックランドの同伴を依頼されて約5日間帯同を許され、バックランドの現役時代をタップリ聞く僥倖を授かったが、そのときに私が新幹線の車中、「あなたは、それまでのWWF王者と異なり、新日本のリングに年に何度も特別参加していた。何か特別な理由があったのですか?」と聞いたときのことである。バックランドは「いい質問だね!」とばかりニッコリ笑って、こう答えてくれた。

「ビンス・マクマホン(シニア)は、大体WWFの年間興行スケジュールを1年前に立てていた。まず、月に1回の大型ヴェヌー(会場)であるMSG(マジソン・スクエア・ガーデン)、ボストン・ガーデン、フィラデルフィア・スペクトラムの日付を押えて、それに肉付けしていったが、MSGとフィラデルフィアは私が必ずメインで出場したから、その時期は新日本に送らなかった。ところが、ボストンは昔から『ブルーノ・タウン』と呼ばれていてね。とにかくブルーノ・サンマルチノが出ないと観客が来なかったんだよ。(WWF)チャンピオンである自分としては悔しい部分もあったんだけど、現実は動かしようがない。そこでビンスは、『ボブ、ボストン大会の開催される日付の周辺に、新日本に派遣するように長期日程を組もうと思うけど、どうかな?』と発案した。日本が大好きな私にとってみれば、願ってもないアイデアだったから、『ぜひ、お願いします!』と答えたよ。ボストンにも常時出場していたら、新日本には全く来られなかったと思う」

バックランドが王者時代(1978年2月20日~83年12月26日)、新日本に年間何回も来ることができた理由は、「ボストン・クラブ」ならぬ「ボストン・スルー」だったという秘話なのだが、バックランドが「ボストンに固執するより、新日本に行くのを選んだ」ことが嬉しいではないか。

その「頻繁な新日本登場」の一つだったのが、本稿の1982年8月5日だった。バックランドはこのワンナイトのためだけに日本に来て、藤波辰巳(現・辰爾)を相手にWWFヘビー級王座を防衛している(25分15秒、回転足折り固めでフォール勝ち)。

時差の調整は困難を極めたと想像していたが、それを聞くと「生まれてから今まで、私は時差ボケというものに悩んだことがないんだ。プロレスラー向きの体質なんだよ」と再びニッコリ。同じコメントを、私はそれまでにルー・テーズ(1916~2002)とバーン・ガニア(1926~2015)から聞いたことがあり、バックランドは「史上3人目」だったのだが、そうでなくては「頻繁に新日本に派遣されること」は苦痛であったに違いない。

「飛行機の中では、完全にスリープ・モードに入れる。新日本は常にファースト・クラスのシートを用意してくれたのに、機中で豪華な食事を食べた記憶がないよ」と豪快に笑い飛ばしてくれた。私もサラリーマンだった時代には、かなりの頻度で海外に出張する機会があったが、常に時差ボケに悩まされ睡眠不足。海外での食事に「食欲満点」でありつけた記憶は一度もない。昭和時代のプロレス世界王者たるもの、技術とスタミナだけでなく、「時差ボケ免疫体質であること」も必須条件だった…との深い話である。

流 智美

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