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2019-07-05

【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・北天佑勝彦編 一番うれしかった会心の相撲、最高の恩返し――[その1]

琥珀色の世界がグラスの向こうでゆらゆらと揺れている。

※写真上=スケールの大きさで、新弟子時代から「末は大関、横綱か」と期待された大物だった
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

期待と裏腹に淡々と送っていた土俵生活

「あら、このボトル、ほとんどカラッポだわ。もういい加減にして。そりゃあ悔しいのは分かるけど、まだ4番も残っているじゃないの。いきなり3連敗したからって、負け越したワケじゃないんだから。ホントの勝負はこれからよ」

 カウンター越しに細い手を伸ばし、肩を揺する女性の声にうなずきながら、北天佑(初土俵のときに四股名は千葉。昭和53年春場所、北天佑と改名。ここでは便宜上、北天佑に統一する)は、まだ自分の不甲斐なさに対する憤りを抑えかねていた。

 それにしても、たった4年間でなんという心境の変化だろうか。今でも北天佑は、中学卒業が目前に迫ったあの日の母の顔に浮かんでいた戸惑いの色をありありと思い出す。

 小学校のときから周りの同級生より頭一つ大きく、中学の1、3年のときの二度、室蘭市の柔道大会で優勝するなどスポーツ万能だった北天佑が、三保ケ関部屋に入門することになった黄金錦(最高位幕下5枚目。昭和61年初場所廃業)という力士を迎えに来た三保ケ関親方(元増位山大志郎)と初めて会ったのは小学2年のときだった。

 と言っても、当時のことで記憶に残っているのは、

「おお、なかなかいい体をしているなあ。大きくなったら、東京のおじさんのうちに遊びにおいでよ。ええっ、来るか、ようし、いい子だ」

 と頭をなでる先代の言葉に大きくうなずいたことぐらい。それがまさか入門承諾を意味するとは毛ほども思わず、北天佑は中学を卒業すると、みんなと同じように室蘭市内の高校に進学し、やがて建設業を営む父のあとを継ぐ青写真を描いていた。

 ところが母にその相談をすると、突然、

「お前は、黄金錦が入門して2年後の小学校4年のとき、中学を出たら三保ケ関部屋に入門する、という約束ができているのよ。お前が入門しないと、父さんや母さんがウソをついたことになり、東京の親方に怒られる。どうしよう」

 とオロオロしだしたのである。

 この思い掛けない返事に、北天佑が驚いたのは言うまでもない。それから3日間、北天佑は自分の将来について死に物狂いで考えた。そして、4日目の朝、

「3年だけ、大相撲で頑張ってみよう。そのくらいの道草だったら、もしダメでも十分やり直しはきくし。オレは3人兄弟の長男だ。両親を悪者にするわけにはいかないよ」

 と入門を決心したのである。こんなふうに、まだ二昔前の日本には、5年前の口約束を必死に守ろうとする律儀な両親や、その両親をたとえ自分を犠牲にしても大事にしようとする心の優しい孝行息子がいっぱいいたのである。

 初土俵は昭和51(1976)年春場所。当時に三保ケ関部屋には「怪童」の名を欲しいままにした横綱北の湖を初め、増位山(太志郎、元三保ケ関親方)、大竜川、播竜山(現待乳山親方)らが群居し、研を競っていた。とても入門早々の新弟子の入り込むスキなどない。

 しかし、弟子育ての名伯楽と言われた三保ケ関親方が、いかにこの北天佑の天賦の素質を早くから見抜き、熱い期待を寄せていたか。入門して2年後、「北の大地に生まれ、天佑に恵まれて、人の右に出るような偉大な力士になって欲しい」という意味を込めて、北天佑というとっておきの四股名を贈ったことでよく分かる。どうして“人の右”となるのか。「佑」という字を、偏と作りに分解すれば一目瞭然である。

 しかし、当時の北天佑はこんな先代の思い入れなど知らん顔。入門した経緯が経緯だけに、およそ淡々と力士生活を送っていた。そのわりに1年半で幕下入りするなど、出世の足取りはすこぶる順調だったが。

昭和55年春場所、幕下で全勝優勝し、新十両昇進を決める
写真:月刊相撲

ライバルの十両昇進に猛追撃

 そんな北天佑の目の色が変わったのは、入門して4年目の東北、北海道を1カ月かけてまわる夏巡業中に、すでにこの幕下時代から抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り返していた1年兄弟子の二子山部屋の若島津(のち大関若嶋津、現二所ノ関親方)が、

「見てろ。オレ、絶対、関取に上がってみせるから。せっかく入ったのに、幕下止まりじゃ泣いても泣き切れないもんな」

 と熱っぽく語るのを聞いてからだった。

 ――みんな目の色を変えてやってるんだ。それに比べて、オレはこれまで一体何をやってきたというんだろう。こんなことじゃ永久に負け犬だよ。よし、オレもこれから根性を入れ替え、上に上がってやる。しかし、こんな“付け焼き刃”がすぐ煌々と光を放つほど、甘い世界ではない。

 この発奮から3場所後の55年初場所。東5枚目の若島津は、3番相撲で1敗したものの、6勝1敗という好成績を挙げ、ついに宣言どおり十両の座をものにしてしまった。ところが東3枚目の北天佑は、初日から3連敗と対照的なスタートを切り、いたたまれない思いを抱いて行きつけのスナックに逃げ込んできたのだ。

 ――なにが将来の米櫃(こめびつ、稼ぎ頭のこと)だよ。ああ、オレはとってもそんな器じゃない。もうダメだ。

 飲めば飲むほど、自分の甘さや、あらが頭の中でふくらみ、髪の毛をかきむしりたくなる。この夜、北天佑は、この入門して初めて味わう惨めさから逃れるために、飲むというよりも浴びる、という感じで、あっという間にウイスキーを空け、正体がなくなるまで酔っ払った。

 ただ、惨めでいたたまれない、ということは、心の中にこの窮地をなんとかしようという力が溜まっている証拠でもある。酔わずにはいられない苦しみは、開花するための陣痛だ。

「あれっ、どうしたんだろう」

 と北天佑が急に肩のあたりの力が抜けたように感じ、思わず周囲をキョロキョロと見渡したのは、この泥酔劇から1日置いた8日目の4番相撲の土俵に上がったときだった。まるでつきものでも落ちたように軽やかに動けるのだ。

 こうしてのたうち回っているうちに脱皮の手掛かりをつかんだ北天佑は、負け越し寸前の剣ケ峰から別人のように立ち直り、後半は連戦連勝。この場所、3連敗、4連勝という超人的な離れワザで逆に勝ち越してしまった。しかも、この勢いは、東の2枚目に躍進した次の場所も止まらず、今度はなんと7戦全勝の堂々たる幕下優勝。先を越された若島津に、たった1場所遅れただけ、という猛追撃で待望の十両昇進まで決めたのである。

「信じられない思い、というのはあのときのことを言うんでしょうねえ。相撲ってこんなにおもしろいものだったのか、と初めて思いましたよ。なにしろあのときはやることなすこと、みんな図に当たり、土俵に上がるたびに勝ったんですから。世の中がいっぺんにバラ色に輝いて見えました」

 それから10年後の平成2(1990)年秋場所7日目に引退した北天佑改め二十山親方は、この日の出の勢いを両手にしっかりつかんだ日のことを振り返った。

 ちなみに、この脱皮のきっかけとなった失意の夜、酔っ払った北天佑を懸命に介抱し励ました女性は、それから6年後の61年2月、晴れて結婚することになる栄美夫人である。(続)

PROFILE
北天佑勝彦◎本名・千葉勝彦。昭和35年8月8日、北海道室蘭市出身。三保ケ関部屋。183cm139kg。昭和51年春場所、千葉で初土俵。53年春場所、北天佑に改名。55年夏場所新十両、同年九州場所新入幕。58年夏場所、初優勝を果たすと、場所後に大関昇進。幕内通算60場所、513勝335敗52休。優勝2回、殊勲賞1回、敢闘賞2回、技能賞1回。平成2年秋場所7日目に引退し、年寄二十山を襲名、分家独立し二十山部屋を創設。幕内白露山を育てるも、18年6月23日、45歳の若さで没。

『VANVAN相撲界』平成6年10月号掲載

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