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2019-07-02

私の“奇跡の一枚” 連載22 擂鉢型の明治神宮外苑相撲場

明治神宮例祭奉祝と銘打った由緒ある第72回「全日本力士選士権大会」は、平成25年も秋場所後の10月7日、両国国技館で盛大に開催された。

※写真上=昭和30年? 明治神宮外苑相撲場で開かれた明治神宮奉納全日本相撲選士権大会風景。見事な擂鉢状の観客席。土俵周りが広く開いていても、観客と力士に一体感が得られた
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

明治神宮奉納相撲の原点

 その名称が示すとおり、最初は明治神宮外苑で行われていたが、昭和33(1958)年からは場所を国技館(当時蔵前)に移して行われるようになった(昭和60年より現両国国技館)。

 それにつけても、と私が今懐かしく思い出すのは、古い新聞や雑誌にあっさり「擂鉢(すりばち)型の」と表現されている相撲場の風景である。しかし、そのほとんどが言葉だけで土俵周りの印象が伝わってこない。

 なぜならここでは、国技館を失った協会が、戦後間もない23年(2場所)と24年(1場所)、晴天興行の本場所を行っているが、興行として成り立たせるために多少の雨に備え全面を低いテント屋根で覆っていたからだ。強い雨が降ると、すぐに降参、「入れ掛け」(興行途中で中止になること)もしばしば。そんな事情もあって土俵を中心に相撲場内部俯瞰の写真が皆無といってもよかった。

 21年に時津風部屋に入門した私は、この苦難の時代の3場所のことをよく覚えている。みんなが大相撲の生き残りをかけて必死だった。

栃若熱気と観衆の心意気

 それだけに、擂鉢型の様子がよく分かるこの見事なつなぎ写真への愛着は深い。

 うるさい周囲のテントもないので、素直に相撲場の全景と、戦後復興に向けた栃若時代の熱気と華やぎが撮れている。

 相撲場があったのは現在の神宮第二球場のあたり。正面奥に見えるのが神宮球場で、いくつも見えるアーチの下の通路が関取衆の支度部屋として使われていた。

 わずか4本の竹と御幣だけで飾られた土俵の結界、飾り付けがいかにも花相撲ならではののどかさである。詰め掛けた観衆や児童の服装にも当時が見えてほほえましくなる。折からテレビ放送も本格化してきていて、写真中央右側には中継用のカメラも見えるなど、興味は尽きない。明治神宮の相撲に思い入れのある私にとってこの写真は、まさに“奇跡の一枚”懐かしさなのである。

語り部=元立呼出し・兼三(時津風部屋。本名・上田謙三。平成11年7月停年)
写真:月刊相撲

月刊『相撲』平成25年11月号掲載

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