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2019-06-18

私の“奇跡の一枚” 連載20 二足のわらじ…歌手・増位山

粋なことが好きだった父(元大関増位山大志郎の先代三保ケ関親方)の影響もあって、私は子どものころから歌が大好きだった。小学校のバス旅行時などマイクを独占し、いつかは歌手になりたいと考えていた。

※写真上=昭和48年、まだ歌い手としてはセミプロ時代の私。人気沸騰中の八代亜紀さんの前で緊張して歌っている顔は、自分ながら初々しい。翌年『そんな夕子にほれました』がブレークした
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

修業を支えてくれた歌

 中学・高校時代、スポーツとしては水泳を一生懸命やっていたが、部屋の稽古場で時折廻しを着け相撲もよく取っていた。幕下力士とも申し合いもやっていたので、それなりに自信があった。進路を決めるにあたっては、父や母の反対を押し切って相撲の道を選んだ。

 親と子とはいえ、師匠と弟子となった身、関取になるまでは、親方の息子だからこそ、それなりの孤独に耐えなければいけない。修業中の私を癒やしてくれたのはやはり歌だった。

 地方場所では近くの店でレコードを買い、宿舎のプレーヤーとちゃんこ場の片隅の電源を借り、耳を傾け何度も口ずさんだ。まだスピーカーと音源が一緒になったカセットレコーダーが普及していなかった時代。入門したころ(昭和42<1967>年)流行っていたのは、伊東ゆかりさんの『恋のしずく』だったっけ。

 ウォークマンが普及してからはより歌を聞く機会が増えたが、決して歌にうつつを抜かしていたわけではない。あくまでも相撲修業の息抜き、気分転換としてのものだ。あの天下の剣豪宮本武蔵が、余技に絵や書をたしなんだように。いろいろなことがプラスに作用して、私は番付を上げれば上げるほど、花相撲の歌合戦等への出演を依頼されるようになった。相撲人気を盛り上げるのに役立てばと、芸能人歌合戦など、チョンマゲの魅力もあって、出演依頼もどんどん増えていった。

そして二十余年の空白が

 そんな私に音楽関係者で初めて「歌手になれば」と言ってくれたのは石坂まさをさんだった。現実にレコードを出したのは、力士出身で相撲研究家、演芸評論家だった小島貞二さんに勧められたのが初め。小さなレコード会社から小島さん作詞、山路進一さん作曲の『いろは恋唄』を出した。

 そうこうしているうちに、曽根一成プロデューサーが海老名香葉子さんに詞を依頼、曲は私の最初のレコードということで、49年あの『そんな夕子にほれました』という歌が出来上がり、それがおかげさまで当たったのだ。当時としては異例の大ヒットだった。さらに52年8月に出した『そんな女のひとりごと』はなんと130万枚、私は歌手になる夢を相撲を通して手に入れたのだった。歌だけやっていたら、もし売れたとしても、もっともっと時間がかかったに違いない。

 昔から日本人に愛され、身近な心の支えとなってきたのが演歌である。私はよし、こっちももっと頑張って、ファンに伝統相撲にもっと興味を持ってもらうように頑張ろう、と決意したのだった。

 ところが、世間の大騒ぎに、60年の新国技館建設を機に当時の協会は、「伝統一本で行く」という姿勢をさらに世間にアピールする意味合いもあったのだろうか、「力士の副業(芸能活動、CM出演等)禁止」を打ち出したのだった。

 私は「肩肘張ってるばかりが相撲じゃないのに。宮本武蔵だって……」と思いながらも、偉い人たちが打ち出した規則には従わざるを得なかった。

 あれから20有余年、その間、協会も不祥事をきっかけに世間の波にもまれながら、新しい時代に向かって、一歩を踏み出した。幹部にも開かれた感覚を持った人材が出てきた。守るべき伝統はしっかり守りつつ、変えるべきところは変えていかねばと、各方面で頑張り、私にも「どんどんやってください」と声を掛けてくれている。

 20数年の時を超えて私の昔の名?増位山も歌手として蘇った。復活後、これまで出したCDは3枚目。松居直美さんとのデュエット曲としては2枚目の『男と女のオルゴール』が好評発売中である。また11月発売を目指して乞うご期待的な勝負作も準備している。

 私の停年は平成25(2013)年11月、すぐそこまで来ている。だが幸い私には歌がある。第三の人生も皆さまにいい歌を提供しながら、大相撲と、歌謡曲の世界を盛り立てて行きたいと思っている。(平成25年当時。停年後から増位山太志郎の名で歌手として活躍中)

語り部=元三保ケ関昇秋(元大関増位山太志郎)

月刊『相撲』平成25年9月号掲載

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