息をするのさえはばかられるような重苦しさに身をすくめながら、逆鉾(入門したときの四股名は本名の福薗。4年後の昭和57(1982)年夏場所、逆鉾に改名。ここでは便宜上、逆鉾で統一)は、じっと病室のドアを見つめていた。この薄い仕切りの向こうに、懸命に死の病と闘っている母がいる。
※写真上=父で師匠の元関脇鶴ケ嶺譲りのモロ差しのうまさで、上位陣を苦しめた逆鉾
写真:月刊相撲
果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。
――今ごろ、オレが顔を見せたら、きっとビックリするだろうな。一体何といって言い訳しようか。
これがさっきから逆鉾の足を金縛りにしている理由だった。何しろ今朝、実の父で師匠の井筒親方(先代。元関脇鶴ケ嶺)や、兄弟子でもある鶴ノ富士(福薗、鶴嶺山などを経て、昭和62年初場所から鶴ノ富士に。ここでは鶴ノ富士に統一)らの目を盗んで、春場所の初日が目前に迫っている大阪の宿舎をそっと逃げ出してきたばかりなのだから。
このところ、母の病状が深刻さを増してきているのは、大阪にいても、父の表情などからそれとなく察せられた。それだけに無用の心配をかけるわけにはいかない。
ただ、ほんのちょっと、顔を見るだけでよかった。その優しい微笑みに会えば、兄弟子たちの冷たい仕打ちや、相撲に対する迷いも消え、また入門したときの燃え尽くすようなやる気が出るかもしれない。逆鉾の胸には、まだ元気で、いつも忙しく立ち働いていたころの、明るく笑っている母の姿が生き生きと息づいていた。
それは小学6年のときだった。兄のペッペ(鶴ノ富士の愛称)や、末弟のアビ(寺尾の愛称)はどうしたのか、近くにはおらず、母と2人、窓際の日だまりで古いアルバムを引っ張り出して見ていたことがある。
その中に、父が、小柄だけど、眼光の鋭い力士を高々と吊り出している写真が一枚あった。
「お母さん、この人、だれ?」
逆鉾がその力士を指さして尋ねると、母は身を寄せるようにして、
「ああ、この人ねえ。これは一番強かった横綱で、若乃花と言うのよ。お父さんは、その横綱に、こんなふうに勝ったこともあったのねえ」
と言い、にっこりした。このときの母のいい匂いと、一番強い横綱、という言葉が逆鉾の心に強く刻み込まれた。その日を境にして、逆鉾はもうとっくに引退してしまっているこの初代若乃花のとりこになったのである。
両国には、土地柄、大相撲関係の本を扱っている本屋が多かった。小さいころから凝り性だった逆鉾は、小遣いが入ると、若乃花や、そのライバルの栃錦のことなどが載っている本や雑誌を求めて、うっすらとほこりを被っている古本屋までのぞいて回り、大ファンの若乃花のことなら、生い立ち、エピソード、全成績まで立ちどころにそらんじられるようになった。
やがて、このファン心理が、自分も若乃花のような力士になりたい、という力士願望に大変化を。逆鉾が中学2年のとき、すでに2歳年上の兄の鶴ノ富士は父の下に入門している。このことも、逆鉾の変心の促進剤になったのは確かだった。
ところが、この蛙の子ならではの選択に、予期せぬ生涯が横たわっていることが判明した。父も、母も賛成だったが、一足先に力士生活を送っていた鶴ノ富士が、
「こんなつらい思いをするのは、オレ一人でたくさんだ。チャキ(逆鉾の愛称)は高校に行け」
と入門に猛反対したのである。このため、逆鉾は心ならずも目黒高(現目黒学院)に入学する羽目になり、
「オレも、ようやく幕下に上がることができ、今ならお前の面倒も少しは見られる。そんなに力士になりたいんなら、入ってこい」
と、兄の入門許可が下りたのは、それから半年後のことだった。
「でも、どうせ入るなら、(若乃花が師匠の)二子山部屋のある杉並区は遠いので、すぐそこの(栃錦がいる)春日野部屋がいい」
と駄々をこねたときの父のいかにも困ったような顔を、逆鉾は今でもハッキリと覚えている。
初土俵は53年初場所。その年の秋場所、土俵上で左足を骨折して2場所休場する、というアクシデントに見舞われたが、モロ差しの名人、と言われた父譲りの勘の良さを発揮し、出世の足取りは順調だった。
ただ、怖いもの知らずの性格だけに、どうしても兄弟子たちのいじめのターゲットになりやすい。骨折した左足の調子もなかなかスッキリしない、という憂うつさも重なって、この入門1年後の“大脱走”になってしまったのだ。
脱走先が母のいる築地のがんセンターになったのは、入門半年後に入院して以来、父が逆鉾をずっと母の専用付け人に命じ、洗濯や、用事一切を一手に引き受けさせたことと大いに関係がある。オレが大阪に行ってしまい、母が困っているんじゃないか、という思いが、部屋を抜け出し、無意識のうちに東京行きの新幹線に飛び乗った逆鉾の脳裏に真っ先に浮かんだのである。
しばらく躊躇した揚げ句、とうとう我慢できなくなった逆鉾は、そっとドアのノブを回し、母の部屋の中に頭だけを突っ込んだ。目の前に、いつも母が寝ているベッドがあった。
「お母さん」
と逆鉾は声を掛けようとして、あわてて口に蓋をした。母は小さな寝息を立てて眠っていた。しばらく見ない間に、また少し頬がこけてしまっている。逆鉾は、いつまでもその母の小さくなった寝顔から視線を外すことができなかった。
「結局、母が目を覚ます前に病室を出て、その晩は友達の家に1泊。翌日、大阪の宿舎に帰りました。だから、母は、あの日、自分が部屋を抜け出して病院に来たことを死ぬまで知らなかったんじゃないですか。無断脱走ですから、怒られるのは覚悟のうえのUターンですよ。でも、あのときは、父も、兄貴も、何にも言いませんでした。きっとオレが母に会いに行っていたことを知っていたんだと思いますね。実は、翌年の夏場所前、もう一度、面白くないことがあって部屋から脱走したことがあるんですよ。このときも、宝塚の伯父さんのうちに1泊してすぐ帰ったんですが、今度は、父、兄貴、それにおばあちゃんまでやってきて、それこそもう勘弁してくれ、というほど怒られました。どうしてもなりたい、と志願して入ったのになんだ、と言ってね。あれから二度と逃げ出そう、という気持ちはなくなりましたね」
と、初土俵から15年後の平成4(1992)年秋場所限りで引退し、春日山を経て6年4月25日、先代の停年に伴って『井筒』を襲名した井筒親方は苦笑いした。
その母が亡くなったのは、この脱走劇から3カ月後の5月20日、ちょうど夏場所千秋楽のことだった。この場所の逆鉾は三段目東43枚目。序盤、勝ち込んで9日目の五番相撲でいち早く4勝目を挙げ、勝ち越しを決めているが、間の悪いことに、この日、峰の富士(九重)との七番相撲が組まれていた。
すでに、母は前日から意識がなく、医者からこの日がヤマ場であることを知らされていた。とても廻しを締めて土俵に上がるような心境ではない。重い足を引きずるようにして国技館にやってきた逆鉾は、鉛のような心に鞭打って土俵に上がったが、こんな精神状態では、勝て、と注文するほうが酷。集中力を欠いた逆鉾は、峰の富士の寄りにあっという間に屈してしまった。
そして、着替えもそこそこに病院に駆け付けると、母は、逆鉾ら3人の子どもたちに思いを残したまま、すでに遠い世界に旅立った後だった。逆鉾はまだ温かい遺骸にすがりつき、43歳の若さで逝った母への尽きせぬ思いと、改めて知った勝負の世界の非情さに、いつまでも身を震わせていた(続)。
PROFILE
逆鉾伸重◎本名・福薗好昭。昭和36年6月18日、鹿児島県姶良市出身。井筒部屋。182cm124kg。昭和53年初場所、福薗で初土俵。56年名古屋場所新十両、57年夏場所再十両時に逆鉾に改名。同年九州場所新入幕。幕内通算57場所、392勝447敗16休、最高位関脇。殊勲賞5回、技能賞4回。平成4年秋場所限りで引退し、年寄春日山を襲名。6年4月、実父で師匠の停年に伴い井筒部屋を継承する。横綱鶴竜を育てた。
『VANVAN相撲界』平成6年7月号掲載
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