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2019-06-07

【連載 名力士たちの『開眼』】 関脇・金剛正裕編 二所ノ関復活に目覚めた“勝負師”――[その3]

今まで背後から照らしていて当然、と思っていた“七光”が急に消えると、どんなに寂しく、かつ惨めな気持ちになるものか。金剛が偉大な後ろ盾を失った空洞感を痛感したのは、昭和46(1971)年夏場所5日目のことだった。

※昭和42年春場所、幕下優勝を19歳の旭國
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】横綱大鵬、大関大麒麟という偉大な兄弟子たちの相次ぐ引退で、稽古場から新聞記者やファンの姿が急に消えてしまう。非情な現実を目の前にした金剛は、名門・二所ノ関復活のため精進を誓う――

降って湧いたビッグチャンス

 やっと勝負師に目覚めた金剛に、降って湧いたようなビッグチャンスが訪れたのは、大鵬引退後、部屋頭を務めた大関大麒麟も現役生活にピリオドを打った4場所後の昭和50(1975)年名古屋場所のことだった。

 このときの金剛は、前の場所、2度目の殊勲賞を獲得。精神的にも、体調的にもちょうど高揚し切っていた。

 これと対照的に、横綱、大関陣は、みんな申し合わせたように絶不調だった。この場所、まず横綱輪島が初日から休場し、大関の貴ノ花も肝炎で初日から3連敗したあと、これまた休場。

 さらに、無敵の北の湖も、この場所は珍しく体調を崩し、9勝6敗と横綱になって初めて二ケタ勝ち星を割り、残る大関魁傑も、千秋楽にこの北の湖を破ってやっと勝ち越す始末。

 つまり、三役以下の誰が優勝してもおかしくない状況ができあがっていたのだ。この下剋上場所で、中盤過ぎから主役に抜てきされることになる金剛も、序盤は決して快調ではなかった。

 3日目に貴ノ花を破るなど、初日から3連勝したものの、4日目から2連敗。5日目を終えたところで、3勝2敗は金剛のほかに10人。この上をいく4勝1敗が7人、土つかずの5連勝も一人いたのだ。

 ただ、大相撲界のホラ吹きクレイ、というニックネームを奉られた金剛の方言癖の方は絶好調。この4、5日目に2連敗して数日後も、

「みんな、一体これはどういうことなんだい。白状するけどさあ、今場所は5日目まで、朝、真面目に稽古をしたんだよ。そしたら、突然、急ブレーキ。こりゃ、いくら稽古しても同じだと思って止めたら、またスイスイ勝ち始めちゃったんだよ。そのうえ、悪いことに、こんなオレを見て、(弟弟子の)麒麟児(現北陣親方)まで、稽古するのはバカバカしい、と止めちゃいやがんの。アイツとオレとは、相撲のタイプが全然違うのに」

 と支度部屋で報道陣を集めてぶちまくった。この金剛独演会は、白星が増えるにつれてますます熱気を帯びたものに。毎朝、稽古前に各種の新聞を1時間かけて読み、たっぷり蓄積した時事問題を引っ掛けたり、茶化したりしながら、取り囲んだ報道陣に、記事の材料や、笑いを提供し続けた。

 8日目、先行していた力士たちがドンドン後退し、とうとう黒姫山、若三杉(のち横綱2代若乃花)、北瀬海、それに金剛、と平幕の4人が2敗で横一線に並んだときも、

「これでいよいよゲーム差なしか。今年のセリーグと同じような混戦だね。横綱、大関は、今の弱い巨人と同じだ」

 とニヤニヤしながら、早々に優勝戦線から脱落した上位陣をバッサリ。

 補足すると、この年の巨人は長嶋さんの監督1年目で、チーム力も、監督の采配もバラバラ。序盤から負けが混んで、ついに球団史上初の最下位になった年だった。

 しかし、金剛は、ただ無責任に口から出まかせを並べ立てていたのではなかった。

「今の力士たちは、周りのことを気にして不言実行型がほとんどだけど、この、ホラを吹く、というのは、とっても勇気がいることなんですよ。いったん口にした以上、ある程度のことをやらないと格好がつかないからねえ。いろいろ吹くことによって、自分にムチ打ってたんです。だから、どんなことを吹くか、あまり途方もないことは言えないので、場所入りするクルマの中では、ずっと考えっ放し。翌日、自分の吹いたことが新聞に載っていると、この記事のスペースを広告料に換算するとこのぐらいだから、昨日のオレのホラは合わせて3億だ、5億だ、とよく自慢したものでした」

 と二所ノ関親方(元関脇金剛)は鼻をうごめかせた。ちゃんと計算ずくだったのだ。

昭和50年名古屋場所千秋楽、鷲羽山を破り初優勝を決めた
写真:月刊相撲

人生を一変させた初優勝

 後半、この金剛ならではの叱咤法が次々にドラマチックなホームランを量産。10日目、みんなの予想を裏切って(?)単独トップに立つと、とうとうそのまま後続を振り切ってゴールに駆け込み、衰退の目立つ二所ノ関部屋に、本当にもう一度、光り輝く太陽を呼び戻したのだ。

 千秋楽、鷲羽山を大相撲の末、右からの上手投げで破り、この軌跡を現実のものにしたときの金剛のセリフがまた、なんとも奮っていた。

「ホラ、みたか。っでも、言っとくけど、このホラは、ホラ吹きのホラじゃないよ。真実とは戦いに勝つことである。以上」

 この最後の、真実とは、の下りは、『天と地と』という海音寺潮五郎の小説からの寸借だったが、この短い言葉の中で、金剛は、ご覧のとおり、好き勝手なことを言っていても、ちゃんと優勝したじゃないか、オレは、そんじょそこらのホラ吹きとは違うんだぜ、ということを声を大にして言いたかったのだ。

「それまで他人の優勝は何度も見てきたけど、自分がする、というのは、全然違うんだよね。とにかく、その日を境に、ものの感じ方や、考え方まで180度、変わっちゃうんだから」

 と二所ノ関親方はしみじみ話していたが、確かのこの二所ノ関親方の場合はその後の人生まで一変させてしまった。この直後に発生したお家騒動に巻き込まれ、1年後、まだこれからという27歳の若さで引退し、二所ノ関部屋を継承するという、優勝する前は思いもしなかった運命を歩くことになった。

「いろんなことを言う人がいるけど、オレとしたら、あのときはああする以外になかったんだ。いま一番つらいのは、昔の二所ノ関部屋を知っている人たちから、お前んところは二所ノ関一門の本家じゃないか。もっとしっかりしろ、と言われることだなあ。でも、そのうちに必ず盛り返して見せるから、もうちょっと長い目で見ててよ。金剛のような破天荒な力士を育ててね」

 と二所ノ関親方は熱っぽい目をした。(終。次回からは関脇逆鉾伸重編です)

PROFILE
金剛正裕◎本名・北村正裕。昭和23年11月18日、北海道深川市出身。二所ノ関部屋。184cm115kg。昭和39年夏場所、大吉沢で初土俵。44年夏場所新十両、金剛に改名。45年秋場所新入幕。50年名古屋場所、平幕優勝を飾り、翌秋場所、関脇に昇進。幕内通算35場所、259勝281敗、優勝1回、殊勲賞3回。51年秋場所前に引退し、年寄二所ノ関を襲名、部屋を継承する。平成25(2013)年初場所限りで部屋を閉鎖、松ケ根部屋に移籍。同年6月20日、相撲協会を退職。翌26年8月12日没。

『VANVAN相撲界』平成5年8月号掲載

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