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2026-08-28

スタン・ハンセンが“大学先輩&師匠&恩師&上司”テリー・ファンクの引退試合に咆哮【プロレス史あの日、あの時1983年8月19日/週刊プロレス】

週刊プロレス1983年9月6日号(No.5)に掲載された全日本8・19越谷のスタン・ハンセン&リック・ハリスvs天龍源一郎&石川敬二戦リポート(週刊プロレスmobileプレミアムで配信中)

1983年8月19日
テリー・ファンク引退記念(スーパー・パワー・シリーズ)開幕戦@越谷市立体育館
 
今から27年前の1999年春、スタン・ハンセンの自伝を日本語に翻訳する仕事をもらったことがある(2000年に『魂のラリアット』という題で双葉社から発売)。ハンセン自身がタイプした膨大な枚数のA4の用紙を見た時に、まず愕然とした(軽く700枚はあった)。原稿を無事に受領した旨を本人に伝えるため、コロラド(グランド・ジャンクション)の自宅に国際電話したところ、奥様(日本人)が受話器に出て「余りにも量が多くなってしまい、すみません。主人はタイプライターに向かう時間がとても好きなんですよ」と丁重なお言葉を頂戴した。本人が出たら「ダメもと」で「どの部分ならば削除しても問題ないですか?」と切り込んでやろうと目論んでいたが、奥様に出られたら何も言えない。1ページ目から正確に翻訳することを約束して受話器を置いたが、いやはや、それから5カ月、ハンセンが生まれてからの詳細な記述をトコトン正確に日本語に直す毎日に悶絶したが、今となっては良い思い出である。最近も何回かトークイベントのために来日しているので、この自伝で苦労した話を振ると、「レスラーになる前は高校教師だからね。文章作るの巧いんだよ」とケムに巻かれる。素顔は、リング上からは全く想像できない温厚な紳士である。

その膨大なA4用紙の中で、一番多くタイプされていたレスラーの名前は、文句なしでテリー・ファンク。同じウェスト・テキサス大学の先輩(テリーが5年上)でプロレス入りの手ほどきをしてもらった話から始まり、デビュー前にドリー・ファンク・シニアとテリーから特訓を受けたこと。デビューしてからアマリロ地区で育てられ、全日本に初めて出してもらったときのこと(1975年9月)。新日本への移籍にあたりテリーから電話をもらったこと(81年5月)など、とにかくテリーはハンセンにとって常に「恩師」であり「師匠」であり「ビジネス上の上司」であり続けた。

そのテリーの引退興行は1983年8月31日、蔵前国技館で開催されたが、相手はハンセンとテリー・ゴーディに決定(テリーのパートナーは兄のドリー・ファンクJr)。よりにもよって因縁関係を引退試合に持ち込まなくても良さそうなものだが、ハンセン自伝には、このカードがテリー本人から(ジャイアント馬場へ)の強い要望であったことが書かれている。

「馬場から話をもらったとき、これ以上にない光栄を感じた。まさかテリーが最後の試合に自分を指名してくれるなど、想像もできないことだった。テリーの存在なくして自分がプロレスラーになることは絶対に有り得なかったし、少しでも恩返しができるとすれば、それは彼の引退興行を最大限に盛り上げ得ることに尽きた」

8月19日の開幕戦から出場したハンセンは、24日から1週間だけ特別参加してくるテリーを迎撃。本番の引退試合の前に3度もタッグで激突し、徹底的に「恩返し」の大乱戦を展開している。蔵前国技館では、徹底的にテリーの右ヒザに集中攻撃を加えて場内に悲鳴を起こしたが、最後はテリーがコーナーポスト最上段からのダイビング回転エビ固めでゴーディからスリーカウントを奪い、涙の引退セレモニーに花を添えた。

ハンセンは自伝の原稿中、「どうして、テリーはあそこまで自分に目をかけてくれたのだろう」と深い文章を残している。テリーにとっては「目にかけてやった一人」に過ぎなかったのかもしれないが、仮にそうだとしても、その期待に一番応えた弟子が、間違いなくスタン・ハンセンだったことは断言してよいだろう。

流 智美

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