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2019-05-10

【連載 名力士たちの『開眼』】 関脇・麒麟児和春編 “頑張り方”の見本示した全力投球の土俵――[その2]

しかし、この力士になりたい、という熱につかれ、飛び込んできた少年の思いがストレートに結果に結び付くほど、この世界は甘く、ロマンチックにはできていない。麒麟児の初土俵は昭和42年(1967)夏場所だった。わずか2カ月余りの間に、ちゃんと身長も合格ラインの173センチになっていたのだ。

※写真上=二所ノ関部屋の稽古場で黙々とトレーニングに励む麒麟児
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】力士になりたい夢を果たそうと中学2年の春休み中に、千葉県柏市から両国の相撲部屋を訪ね歩いた麒麟児。3軒目の二所ノ関部屋でようやく入門が叶うと、両国中に転校する。そこにはのちのライバルとなる北の湖や大錦らも通っていた――

トラブルに遭遇し廃業決意

 ところが、まず入試代わりの前相撲を1場所では通過できず、2場所もやり、その後も出世の足取りは、目立って遅い、というほどではなかったが、実にゆっくり。このことは、同じニッパチの北の湖の15歳で幕下に上がり、17歳11カ月で十両、18歳7カ月で幕内、という出世スピードと比較すると、いっそうハッキリする。というのも、麒麟児がやっと幕下にたどり着いたのは入門して3年半後の序ノ口から22場所目、18歳ちょうどのときだったからだ。

 そのうえ、一人の兄弟子との折り合いがうまくいかず、しょっちゅう陰湿なイジメにあう、というトラブルにも遭遇。これが原因で、この幕下時代、一度は廃業を決意し、自分の手でマゲまで切り落としている。麒麟児の素直で、明るい言動の随所に垣間見える育ちの良さが、厳しい環境で育ったその兄弟子には目障りで我慢できなかったのに違いない。

 このマゲを切ったときは、師匠の説得や、家族の励ましなどで、もう一度やり直す決心をしたが、周囲との溝がますます深まってしまい、一段と麒麟児を苦しい状況に追い込むことに。

「もうこんな思いをしながら相撲を取っているのは嫌だ。神経の使い過ぎで体もだんだん痩せてきたし。20歳なら、まだ十分、ほかの社会でやり直せる。オレ、今度の場所限りで相撲界をやめるよ。いいだろう」

 麒麟児はとうとうこんな最終結論を出し、部屋を抜け出してすぐ来れるこの両国公園に、両親と二つ違いの姉の三人を呼び出して、自分の決心を伝えたのは、48年秋場所がもう数日後に始まる、という残暑の厳しい日のことだった。

「やっぱりダメか。せっかく十両まであと一息、というところまで来たのになあ」

 大きなため息をつく父の顔に、小さな汗の玉が浮かんでいる。

「オレだって、どうしてこんなことでやめなくちゃいけないのか、と思うと悔しくて仕方ないよ。でも、このままじゃ、余計ダメになるもの。その代わり、この秋場所は死に物狂いでやるよ。思い残しのないようにね」

「そうか。お前がそう決めたのなら、ワシらはもう何も言わん。しっかり有終の美を飾って、千秋楽が終わったら帰って来い。待ってるからな」

 慌ただしい家族会議が終わり、肩を落として引き揚げる三人を見送りながら、麒麟児は言いようのない憤りが体の奥から突き上げてきたのを、20年以上経った今でもはっきり覚えている。

昭和49年九州場所、2場所連続の幕下優勝と十両昇進の切符を手に入れる(前列右)
写真:月刊相撲

廃業寸前で死中に活を拾う

 このときの麒麟児の地位は幕下西30枚目である。やめる、と決めた以上、もう兄弟子も、周囲の目も怖いものは何にもない。ただ、この6年半、培った力を土俵の上に余すことなく、たたき付け、燃焼させるだけ。場所が始まると、100パーセント開き直った麒麟児は、まるで全身を“怒り金時”にしてぶつかって行った。そして、気が付くと、7戦7勝。なんと全勝で初の幕下優勝をしていたのだ。それは皮肉と言えば余りにも皮肉な結果だった。

 しかし、これでは、とりあえず廃業は一場所延期にせざるを得ない。ところが、その翌場所、またまた同じ奇跡が起こった。東の2枚目、という自己最高位で、再び初日から負け知らずで2場所連続優勝し、合わせてまさかの十両昇進まで決めてしまったのである。

「なりふり構わず、というのはあのときのことを言うんでしょうねえ。それだけそれ以前の精神的な苦しみが大きかったとも言えるんですが、とにかくあのときの自分は、もう怖いものなしですからね。初日から何にも考えず土俵に上がって、思いっ切り自分の力を出し切るだけ。それにしても、どうして自分にあんなにすごい力があったのか。もしあそこでダメだったら、完全に相撲界と縁を切り、まったく別の道を歩いていたわけですから、今考えると人の運命の不思議さ、怖さにぞっとしますね」

 と、北陣親方(元関脇麒麟児)は死中に活を拾ったこの怒涛のような2場所にしみじみと思いを馳せる。

 人間は、素っ裸になるといかに強いか。このとき、麒麟児は、土俵に上がったときの心の持ち方の大切さを思い知った。それは土俵以外にも通じる貴重な教えだった。(続)

PROFILE
麒麟児和春◎本名・垂沢和春。昭和28年3月9日、千葉県柏市出身。二所ノ関部屋。182cm128kg。昭和42年夏場所、本名の垂沢で初土俵。49年初場所新十両、麒麟児に改名。49年秋場所新入幕。最高位関脇。幕内通算84場所、580勝644敗34休、殊勲賞4回、敢闘賞4回、技能賞3回。63年秋場所で引退し、年寄北陣を襲名。二所ノ関部屋で指導に当たる。平成30年3月8日、停年退職。

『VANVAN相撲界』平成6年2月号掲載

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