平成25年(2013)初場所後の1月29日午前1時52分、三役行司の木村正直(本名・山内幸久)さんが肝細胞ガンのため亡くなった。まだ59歳の若さだった。
※写真上=すぐビデオで確かめたがる近年の審判員に有無を言わせなかった確かな正直の判定!
写真:月刊相撲
長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。
私が正直さんとお近づきになったのは岐阜県人会が縁だった。高山市出身の私は生まれつき相撲が好きで、栃若時代の三役で同県人である(羽島市出身)羽嶋山の大ファン。
長じてからも、岐阜県出身力士と聞けば一生懸命応援し、正直氏が県人会に時折連れてくる関取衆を盛り立てきたが、残念ながら三役力士は誕生していない。その分、彼は長年の努力と辛抱で、行司の世界でナンバー4の三役格行司にまで上ってくれた。立行司も目前。当然、我々の応援熱も上がる。
県人会で会うたびに、私は彼の大相撲に対する愛情をひしひしと感ぜずにはおれなかった。おしゃべり好きな彼だが、その相撲に関する該博な知識、幅広いエピソードは我々を飽きさせることがなかった。中でも、彼の行司の師匠筋に当たる大阪相撲の朝日山部屋に関する薀蓄と情熱、実行力(歴代の墓が無縁仏にならないよう私財を投げ打って1カ所に取りまとめるなどした)には、敬意を表すほかなかった。
その行司名どおり、正直で勤勉、仲間内でも誰も彼を悪く言う人はいなかったと聞く。
行司さんとしてはかなり太めの体になったが、ファンは彼の気さくな人柄、甲高い声、一生懸命土俵を動き回り、勝負決定の瞬間高々と軍配を上げる派手な動作にしびれた。
しかし、彼はいつの間にか病魔に見入られていた。平成22年、治療のため3場所連続休場するなど土俵から姿を消したりした。穏やかでいられる訳はない。しかし、見事に土俵に復帰した彼は淡々と、時にはとぼけた口調で、病気と闘う苦しさをおくびにも出さず、冷静な裁きも忘れなかった。
2月5日と6日、東京は芝の名刹・増上寺で行われた通夜、告別式では、彼が昨年見事な裁きを見せた3勝負のビデオが流されていて、参列の人々の涙を誘った。
私が、正直さんの裁きのかっこよさにしびれた一番もそこに入っていた。永遠に私の記憶に残る一枚となったのは、本誌24年6月号(旭天鵬が平幕優勝を果たした夏場所決算号)の熱戦グラフの巻頭を飾った写真である。
それは境川部屋勢の健闘に沸いたあの夏場所のことだった。3日目の豊響―琴欧洲戦。
左四つ右上手、胸を合わせて寄り詰めた西土俵、琴欧洲が上手投げに行くと、豊響も下手投げを打ち返す。琴欧洲の肩と豊響の右ヒジがほぼ同時に落ちたように見えたが、写真のとおり腰を低く構えた正直さんは、絶好の位置から、勝負を見極めると迷わず、最後まで諦めなかった豊響の方に一気に軍配を上げた。場内の一部に疑問の声が上がるも、審判の判定は問題なし。物言いもつかなかった。
病み上がりの土俵であるのになんという素晴らしい裁き! 私はテレビを見ながら、「さすがは我らが正直」と酔いしびれた。
九州場所序盤、中盤と懸命に土俵を務めた正直さんであったが、ついにドクターストップ。しかし彼は少しも取り乱すことなく、心の烏帽子、直垂を脱いだという。その見事な生き様に合掌――。
語り部=中坪法律事務所 中坪良一
月刊『相撲』平成25年3月号掲載
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