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2019-04-30

私の“奇跡の一枚” 連載13 ヒゲの伊之助涙の抗議

テレビ時代を前に、昭和27年(1952)秋場所、相撲協会は伝統の四本柱を撤廃。NHK の本場所中継は28年夏場所から始まった。我が日本テレビもこれに遅れじと翌秋場所から中継を開始した。その後のテレビ局も続々参戦、昭和34年までには民間4局が出揃い、蔵前国技館にはズラリと放送席が並んだ。

※写真上=昭和33年秋場所初日、事件は突然起こった。よっぽど信念の判定だったのだ。私はさっさと引き下がればいいのにと一瞬でも思ったことを反省した
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

判定ヘの信念と勝負の神秘

 長い相撲報道経験の中でも私の思い出に残るシーンは、このテレビカメラの放列の前で起こった。世に言う「ヒゲの伊之助事件」である。

 33年秋場所初日、結び前の横綱栃錦と平幕北の洋戦。取り口をサラリと言えば、立ち合い左差しを果たした北の洋が、栃錦を黒房下に寄り立てる。土俵に詰まった栃錦が左に回りながら左から突き落とせば、両者ほとんど同時に落ちた。勝負の流れ的には北の洋有利――と簡単だが、力士の気持ちを含めると、これはかなり深い勝負だった。 

 持ち前の鋭い立ち合いで踏み込んだ北の洋は、得意の左を差し込むと左四つ充分で激しく寄って出た。一気に寄られた栃錦は大きくのけぞりながらもヒザを深く曲げ、腰を落として必死にこらえつつ、右手で北の洋の首を巻くなどして体勢の挽回を図った。しかし、この機を逃したら勝ち目はないと、北の洋も必死に寄って出る。そこで栃錦は土俵際左へ回りながら窮余の左の突き落としを放った。栃錦の体は宙に浮いて右足から飛び出し、北の洋の体は栃錦の左脇の下に泳いで右ヒジから落ちた(北の洋の証言による)。

 裁く19代式守伊之助は、北の洋に上げかけていた軍配を、勝負を見届けた瞬間、大きく翻して栃錦に上げた。いわゆる回しウチワである。すかさず正面の春日山(元大関名寄岩)、向正面荒磯(元横綱照國)検査役から物言いがつき、湊川(元幕内十勝岩)、岩友(元幕内神東山)、伊勢ノ海(元幕内柏戸)が加わっての協議の結果、4対1で北の洋の勝ちと判定された。

 だが、そこで伊之助が自分の判定を主張する前代未聞の抗議を行ったのだ。まさかの「逆物言い」に半ば唖然とする親方衆。伊之助がトレードマークのヒゲを震わせ、激昂、両手で土俵をたたいて抗議するに至って、蔵前国技館場内は騒然。伊勢ノ海検査役が「いい加減にしろ」と諌める声が土俵マイクからも聞こえる。騒ぎは13分にも及んだ。

 このとき、佐渡ケ嶽親方(元小結琴錦)を解説者として実況中継をしていた私は、それほど問題ない勝負と見ていただけに、この大物言いの場面をどうやってつなげばいいか、苦労した。

 そうこうしているうちに、「ビックリ写真が出来上がったぞ」というスタッフの声が耳に入った。当時はもちろんビデオなどなく、土俵上の勝負の映画は相撲協会映画部にのみ撮影が許されていたので、我々はそれよりコマ落ちの分解写真を、放送の参考資料としていたのである。

 それを見ると、完全に北の洋の流れで決まったような取り口が、九分九厘九毛来たところでなんと体勢が入れ代わり、勝負が鮮やかに逆転しているではないか。私は伊之助の目の正しさと栃錦相撲の神秘を感じざるを得なかった。しかしこれを説明する暇なく土俵は結びの一番へ。

 私は翌日早速、「行司の権限を超えた行動」を取ったとして出場停止となった伊之助の自宅を訪ね、自分の不明を詫びると同時に、行司の置かれたつらい立場に想いを致したのだった。

語り部=元日本テレビアナウンサー 相撲記者クラブ会友 原 和男
写真:月刊相撲

月刊『相撲』平成25年2月号掲載

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