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2019-04-26

【連載 名力士たちの『開眼』】 横綱・旭富士正也編 捨て身になってかかった人間の強さ――[その3]

退院から間もなくの昭和61年(1986)名古屋場所初日、10連敗中の大乃国戦が目前に控えていた。しかし、ここであっさり兜を脱いでは永久に負け犬になる。せめてかなわぬまでも、一度ぐらいは大乃国にヒヤリとさせてやろう。頼りはこのライバルに対する、ただでは引き下がりたくない、という執念だけだ。旭富士はこう腹をくくると、痩せこけた体を一つ、パチンとたたいて土俵に上がった。

※昭和63年初場所、悲願の初優勝を果たした旭富士。師匠夫妻に囲まれ大粒の涙を流した
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】三役に定着した旭富士に、大乃国というライバルが現れた。マスコミに「稽古好きの大乃国、稽古嫌いの旭富士」というレッテルを貼られたが、それは旭富士の演出。巨漢・大乃国へのライバル心から体重増に励むが、皮肉にも師匠と同じ膵臓炎にかかる――

捨て身になってライバル撃破

 人間の体というのは、開き直ると意外に動くものである。最初から勝ち負けを度外視し、相手をあわてふためかせることだけを目指していた旭富士は、ある意味で気楽なもの。行司の軍配が返ると、旭富士はまるでそれまでの対戦とは別人のように、のびのびと動き回り、先手、先手と攻めた。これには旭富士料理に絶大の自信を持っていた大乃国もすっかり戸惑い、オタオタ。そして、ついに思わず目をこすりたくなるような出来事が起こった。得意の右を深く差した旭富士が、小さなスキをついて下手投げを打つと、体調が万全のときでも決してこの投げを食わない大乃国の200キロの巨体がグラっと傾き、やがてテレビのスローモーションでも見ているようにゆっくり横転したのだ。

 信じられないような結末。捨て身になってかかった人間がどんなに怖いか。狐に鼻をつままれた思いで花道を引き揚げながら、このとき、旭富士は初めて知ったのである。

 この年の名古屋場所の初日は、奇しくも旭富士の誕生日の、7月6日だった。それは、これでもか、これでもか、と試練を与え続けた神からの無上のプレゼントだった。

横綱昇進で燃え尽きた力士人生

 旭富士が大乃国の後を追って第63代横綱に昇進したのは、この無欲の勝利から5年後の平成2年(1990)名古屋場所後のことだった。そして引退は。この1年半後。横綱在位はわずか9場所だった。

「横綱になるまでは夢中でしたけど、上がってしまったら、なんだかホッとしちゃったんです。それに、オレが辞める4場所前に千代の富士関が、3場所前に大乃国も引退してしまいましたからね。まだ体力的には大丈夫だったんですが、精神的に急にガクッとなって、もうそうなったら自分の納得いく相撲は取れませんからね」

 と安治川親方は頭をかく。最後まで旭富士は名人肌の力士だったのである。現在は伊勢ケ濱部屋の総帥。現役時代とは打って変わって第二の旭富士づくりに人目も構わず、おおっぴらに励んだ結果、横綱日馬富士、大関照ノ富士らを育て上げた。(終。次回からは関脇・麒麟児和春編です)

PROFILE
旭富士正也◎本名・杉野森正也。昭和35年(1960)7月6日、青森県つがる市出身。大島部屋。189cm143kg。昭和56年初場所、本名の杉野森で初土俵。同年夏場所、旭富士に改名。57年春場所新十両、58年春場所新入幕。62年秋場所後に大関昇進。平成2年名古屋場所、連覇で3回目の優勝を果たし、場所後に第63代横綱に昇進。幕内通算54場所、487勝277敗35休、殊勲賞2回、敢闘賞2回、技能賞5回。平成4年初場所で引退し、年寄旭富士から安治川を襲名。翌5年4月、分家独立し、安治川部屋を創設。19年11月から伊勢ケ濱に名跡変更、横綱日馬富士、大関照ノ富士、関脇安美錦、宝富士らを育てた。

『VANVAN相撲界』平成6年1月号掲載

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