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2019-04-19

【連載 名力士たちの『開眼』】 横綱・旭富士正也編 捨て身になってかかった人間の強さ――[その2]

この母の死から2場所後の昭和58年(1983)春場所、待望の入幕を果たした旭富士は、再び快調に番付を駆け上がり始めた。初めて小結に昇進したのは入幕して5場所目の九州場所。その翌場所、2日目の北天佑戦で右足を痛めて休場し、いったん幕尻まで後退したが、すぐ盛り返すと、たちまち三役に定着してしまったのだ。

※昭和61年夏場所、小結で2度目の殊勲賞受賞(左は敢闘賞・保志、のち横綱北勝海)
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】近大に入学してすぐ、西日本新人戦に優勝した旭富士だったが、2年に進級して間もなく中退。郷里の青森に帰って漁師の手伝いをしていた。そんな折、知り合いの声掛けで大島部屋に入門、スピード出世を続けていたが、母が突然亡くなってしまう――

「稽古嫌い」は旭富士の演出

 当時の大相撲界には、この旭富士のほかにもう一人、注目の若手がいた。のちの第62代横綱大乃国である。この大乃国は、旭富士より年齢は2つ下だったが、入幕した場所もまったく同じ。しかも、体型や、性格、相撲っぷりなど、まったく対照的。こんな面白い取り合わせを、鵜の目鷹の目のマスコミが黙って見逃すはずがない。

「新ライバル出現」と銘打ち、二人をことあるごとに取り上げ、強引に競争させた。振り返って見ると、これが恥ずかしがり屋の旭富士のヘソを曲げるきっかけだったかもしれない。

「オイ、新聞記者が来ていないか、見てこいよ」

 旭富士は、いつも高砂部屋の稽古場の近くに来ると、付け人にそっと耳打ちした。だれもいないということが分かればそのまま入っていって、近大の先輩でなにかにつけてよくかわいがってくれる朝潮や小錦、それにしょっちゅうここに出稽古に来ている横綱千代の富士らの胸を借りる。一人でもいると、そのままUターンして、また自分の部屋に帰るか、稽古を手抜きする。これが旭富士がとる行動パターンだった。

 当時のスポーツ新聞をひっくり返すと、稽古好きの大乃国、稽古嫌いの旭富士という文字が氾濫している。しかし、この「稽古嫌いの旭富士」は、あくまでも旭富士がわざとつくり出した仮の姿だった。

 ――力士は、土俵の上だけで本当の力を出せばいいんだ。舞台裏はむやみに見せるものじゃない。

 旭富士は、こんなふうに真の力士のあるべき姿を設定したのだ。

 ――稽古しないで勝てるほどこの世界は甘くない。ちゃんと分かってくれる人は分かってくれるさ。

 こう旭富士は自分に言い聞かせ、みんなの目の届かないところで黙々と泥まみれの努力を続けた。惚れ惚れするような名人芸を持っている職人ほど、頑固でかたくななものだが、旭富士もそういう資質を持った職人力士だったのである。

 年下の大乃国なんかに負けてたまるか。こんな性格だけに、正面切ってではなかったものの、ライバル意識も人一倍。この旭富士が、大乃国に負けないために目の色を変えて取り組んだのが体力アップ作戦だった。

 というもの、体重が最高時で200キロの大台を超えた大乃国は、入幕したときすでに150キロを超えるジャンボサイズ。これに対して、旭富士は、128キロしかなかった。

 こんな巨漢の大乃国に真っ向から対抗し、打ち破るには、自分もちょっとやそっとのことには動じないような体重をつける以外にない、とソロバンをはじいたのだ。そのためには、まず食べることである。

ウエートトレーニングにも積極的に取り組んだ
写真:月刊相撲

力士生活最大のピンチ

 それは小結で2度目の殊勲賞をもらい、いよいよ大関に向かって力強く第一歩を踏み出した61年夏場所が終わって間もなくのことだった。

「いてててっ」

 と旭富士はみぞおちの辺りから背中にかけて、身をよじるような痛みに襲われ、夜中に飛び起きた。

 このとき、すでに大乃国は大関に昇進して丸1年を経過している。大きく水を開けられた旭富士は、少しでもこのライバルに追い付くため、ますます体重アップに真剣に取り組み、連日必死になって食べまくった。

「うまいものをうまいだけ食べる、というのは最高の楽しみですけど、おなかが空いてなくても食べなきゃいけない、というのは、そりゃあつらいもんなんですよ。とにかくあのころのオレは、朝起きたときから、夜寝るときまで、ずっと食いっ放し。それも、少しでも栄養のあるものをと、いつもこってりしたものばかり選んで食べていましたからね。おかげで念願の体重もめきめき増え、ついに最高で153キロに。あの夏場所、二ケタの10勝を挙げ、殊勲賞をもらったのは、この体重アップ作戦の成果でした」

 と安治川親方(現伊勢ケ濱、元横綱旭富士)は、この力士ならではの苦行と、その目を見張るような成果のほどを打ち明ける。

 しかし、とうとうこのムチャ食いがたたって、内臓がストライキを起こし、かつて師匠の大島親方(元大関旭國)が散々悩まされた膵臓炎になってしまったのだ。この発作が起こったときの痛みは、なかなか患った人でないと分からないが、とても我慢できるものではない。

 布団の上を転げ回り、のたうつ旭富士を、付け人たちがやっとの思いで救急車に乗せ、病院に運ぶと、そのまま即入院。食べるものは脂肪分がほとんどない病人食。安静第一で、もちろん運動はタブーだった。

 こんな生活が2週間余り過ぎ、退院してみると、あれほど情熱とお金をかけて増やした体重が127.5キロまで落ち、はちきれんばかりだった胸や、おしりのあたりの筋肉も、ペシャンコになって、まともに見られないような無残な姿をさらしていた。

「あのときの気持ちは、何とも言えなかったですね。それまでの苦労がわずか2週間で吹っ飛んでしまったんですから。しかも、まだ38度近い熱がしょっちゅう出ていたし、口に入れられるのは野菜だけ。オレに死ねと言うのか、とあのときばかりは神を恨みました」

 と、安治川親方は我が力士生活最大のピンチを振り返る。

 もう次の名古屋場所は目前に迫っていた。数日後、初日の割(取組)が発表になり、憂うつな気持ちで取組表を覗き込んだ旭富士は、もう一度、意地悪な神を恨んで大きなため息をついた。なんと相手は、それまで10連敗中の大乃国だったのだ。(続)

PROFILE
旭富士正也◎本名・杉野森正也。昭和35年(1960)7月6日、青森県つがる市出身。大島部屋。189cm143kg。昭和56年初場所、本名の杉野森で初土俵。同年夏場所、旭富士に改名。57年春場所新十両、58年春場所新入幕。62年秋場所後に大関昇進。平成2年名古屋場所、連覇で3回目の優勝を果たし、場所後に第63代横綱に昇進。幕内通算54場所、487勝277敗35休、殊勲賞2回、敢闘賞2回、技能賞5回。平成4年初場所で引退し、年寄旭富士から安治川を襲名。翌5年4月、分家独立し、安治川部屋を創設。19年11月から伊勢ケ濱に名跡変更、横綱日馬富士、大関照ノ富士、関脇安美錦、宝富士らを育てた。

『VANVAN相撲界』平成6年1月号掲載

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