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2019-04-12

【連載 名力士たちの『開眼』】 横綱・旭富士正也編 捨て身になってかかった人間の強さ――[その1]

ゼーゼーと相手の激しい息づかいが耳を打つ。おそらく自分も相手の天剛山(木瀬)に負けないような荒い息をしているに違いない。でも、ここで音を上げると、2日前に亡くなったばかりの母が、あの世から意気地のない息子を見てがっかりするのが目に見えている。

※写真上=抜群の相撲センスが光った第63代横綱旭富士
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

近大中退し青森で漁師に

  旭富士(最初の四股名は杉野森。入門3場所目に旭富士と改名した。ここでは旭富士で統一)は、天剛山の突っ張りをはねのけ、やっとの思いでつかんだ両前ミツにグッと力を入れると、思わず、

「チクショーッ!」

 と叫んだ。

 ――今日だけは、たとえどんなことがあっても負けるわけにはいかないんだ。

 旭富士は、全力を振り絞ると、死に物狂いで前に出た。あとはもう無我夢中。ふっと我に返ると、天剛山が「ああっ」と言いながら最後のあがきを止め、土俵を割ったところだった。

 ――オフクロ、見てくれたか。オレは勝ったぞ。

 旭富士は行司の勝ち名乗りを受けながら、心の中でこうつぶやくと、いつの間にかあふれ出たほおの涙を拳でぐいと拭いた。

 青森は相撲王国である。父の清三さんがその青森県の相撲連盟の副会長をしていたこともあって、旭富士は小さいころから相撲を取ることが一番の遊びだった。やがて、母の乗子さんが保健体育の先生をしていた五所川原商高の相撲部の選手として活躍。大阪の近大に入学したのは昭和54年(1979)春のことだった。

 大学を出たら青森に帰って、母校の五所川原商高の先生になり、相撲部の監督に、とすでにこのとき、周囲の人たちのお膳立てで4年後の就職先まで内定していたのだ。後願になんの憂いもない、恵まれた遊学だった。

 こんな期待に応えるように、旭富士は近大に入学してすぐの5月に行われた西日本新人戦にいきなり優勝している。相撲の素質も一級品だったのだ。

 ところが、1年後の2年に進級してまもなく、旭富士は突然、この近大を中退して郷里の青森に帰ると、漁師をしていた叔父の船に乗り込み、夏はマグロ、冬は鮭を追いかける生活を始めた。

「大学の運動部は、1年、2年は練習よりも先輩たちの雑用をしていることのほうが多いですからね。そんなこんなで、イヤになっちゃったんですね」

 旭富士はこの中退の理由について多くを語ろうとしないが、「先生」として帰ってくる日を楽しみしていた両親や、親戚、知人たちは、頭にネジリはちまきをして網を引き揚げている姿を見たり聞いたりする度に、そのくらいがっかりしたか、容易に想像できる。

 このままでは、あの子はダメになる。だんだん魚を追いかける漁師ぶりが板についていく旭富士を見て胸を痛めている母の乗子さんを見るに見かねた五所川原商高の同僚の一人が、

「こういう子がいるんだけど、なんとかならないだろうか」

 と、まだ部屋を興して間がない大島親方(元大関旭國)に電話したのは、55年12月のことだった。

「あれは、もう何日かで正月、というときでした。たまたま漁が終わって、自宅に一人でいるとき、親方から、『自分はこういう者だけど、遊びがてら東京に出てこないか』と誘いの電話がかかってきたんですよ。青森に住んでいると、東京なんてそうそう行く機会はありませんからね。自分もちょうど暇でしたので、それならちょっと行ってみようか、と暇つぶしのつもりで上京したのが運の尽きで。とうとうそのまま入門することになってしまったんです。そのころの大島部屋の力士は中学を卒業して1、2年の年下ばかり。20歳の自分が一番上で、これなら近大のときのように朝から晩までアゴでこき使われるようなことはないな、と思ったことも、クビを縦に振った理由の一つでした」

 平成4年初場所3日目、初日の曙に次いで日の出の勢いの人気者の若花田(のち横綱3代若乃花)にも敗れ、その日のうちに丸11年の現役生活にピリオドを打ち、その後「安治川」を襲名した旭富士改め安治川親方(当時、現伊勢ケ濱)は、この急な入門のいきさつをこんなふうに話している。

 ――ようし、1年で十両に上がって見せる!

 入門が正式に決まったとき、旭富士はごく親しい人たちにこう洩らしている。およそ10カ月間の漁師生活の中で芽生えた、抑えがたい欲求不満と、小さいころから慣れ親しんできた相撲に対する飢えから、思わず自分でもビックリするような大言壮語を口走らせてしまったのだ。しかし、これが逆に旭富士のいい意味のプレッシャーとなり、相撲一本に追い込む、という思いがけないプラス効果を生むことに。

昭和56年春場所、序ノ口デビューを果たした(当時は杉野森)
写真:月刊相撲

出世を喜んだ母の危篤

 昭和56年初場所、初土俵。翌春場所、序ノ口で優勝したのを皮切りに、旭富士の出世スピードは驚きの連続だった。1場所置いた名古屋場所、三段目で優勝し、さらに1場所置いた九州場所、今度は幕下で優勝。次の57年初場所、東幕下2枚目で5勝し、本当に序ノ口から1年で十両入りを決めてしまったのだ。

 この序ノ口からわずか6場所で十両昇進、というのは、33年に年6場所制になって以来、板井(大鳴戸)の5場所に次いで二番目のスピード記録(幕下付け出しを除く)である。

 こんな息子の秘められた素質が急速に開花するのを見て、

「ああ、これであの子も胸を張って堂々と生きていけるわ」

 と乗子さんが大喜びしたのは言うまでもない。

 その乗子さんが心臓発作を起こして危篤、という知らせが旭富士のもとに届いたのは、十両に駆け上がって5場所目の、九州場所のために福岡入りし、稽古に励んでいる真っ最中のことだった。

 大変だ、母が死にかけている。旭富士は、顔を引きつらせて稽古場を飛び出すと、そのまま空路、母のいる北に向かった。このときの足元がワナワナ震えるような思いは、今も鮮明に安治川親方の脳裏に刻み込まれている。

「あのときの帰郷は本当につらかったですねえ。もともと母は心臓に持病を抱えていたんですが、何しろ突然でしたから。幸い、自分が病院に着いたときは、まだ息がありました。でも、結局ダメで。55歳ですよ。葬式は、今でもよく覚えていますが、初日の前々日。それを済まし、福岡に帰り着いたのは初日のお昼ごろだったなあ。空港から真っすぐ場所入りし、そのまま土俵に上がったんです。その前の何日間か、丸っきり体を動かしておらず、しかも、睡眠不足や、移動の疲れなどで、とても土俵に上がれるような状態じゃなかったんですけどね。でも、この日だけは、たとえ這いつくばっても土俵に上がり、絶対に勝ってやる、と心に固く誓ったんです。それが亡くなったばかりの母の供養なんだ、と思って。あのときのオレの顔、もし、鏡かなにかで見たら狂人のように見えたんじゃないかなあ」

 と、安治川親方はこの12年前を振り返る。

 こうやって何かにのめり込み、自分を駆り立てないと、悲しみと虚脱感で立ち上がれないような心境だったのだ。それだけに、天剛山を破って、乗子さんに白星を捧げたときの旭富士の気持ちは、およそ筆舌に尽くし難かった。

「チクショーッ!」

 髪を振り乱し、ほおを濡らして花道を引き揚げながら、もう一度、旭富士は小さな声で叫んだ。

 この日、まだ本人は気付いていなかったが、心のどこかに巣食っていた両親や周囲への甘えを完全に追い出し、目を吊り上げ、命懸けで戦う本物のプロに生まれ変わった。(続)

 この日、まだ本人は気付いていなかったが、心のどこかに巣食っていた両親や周囲への甘えを完全に追い出し、目を吊り上げ、命懸けで戦う本物のプロに生まれ変わった。(続)PROFILE
旭富士正也◎本名・杉野森正也。昭和35年(1960)7月6日、青森県つがる市出身。大島部屋。189cm143kg。昭和56年初場所、本名の杉野森で初土俵。同年夏場所、旭富士に改名。57年春場所新十両、58年春場所新入幕。62年秋場所後に大関昇進。平成2年名古屋場所、連覇で3回目の優勝を果たし、場所後第63代横綱に昇進。幕内通算54場所、487勝277敗35休、殊勲賞2回、敢闘賞2回、技能賞5回。平成4年初場所で引退し、年寄旭富士から安治川を襲名。翌5年4月、分家独立し、安治川部屋を創設。19年11月から伊勢ケ濱に名跡変更、横綱日馬富士、大関照ノ富士、関脇安美錦、宝富士らを育てた。

『VANVAN相撲界』平成6年1月号掲載

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