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2019-04-09

私の“奇跡の一枚” 連載10 師弟の絆! 千代の山と北の富士

背の高さと、情熱だけで相撲部屋に押しかけ、入門を希望したものの、あっさり不合格。体つきから素質ゼロを見極められ、新弟子にもなれなかった男、それが若き日の私である。

※写真上=昭和45年(1970)1月場所後、愛弟子の北の富士が玉の海とともに横綱へ昇進。人の良い九重親方(元横綱千代の山)が、こみ上げる喜びを懸命にこらえながら、愛弟子・北の富士に土俵入りを指導している。師弟ともに照れくさそう……このほのぼのとした雰囲気がなんともたまらない!
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。

憧れの親方の下での居候体験――濃密な2週間

 そんな男が、今でも部屋の親方を師と仰ぎ、親と慕ってやまない。それはその親方の人間的な優しさに救われ、一生に通じる教えと激励を受けたからにほかならない。

 私は、北海道は雪深い稚内の生まれ。しかし、物心もつかぬうちに両親を次々に亡くしたので、牧場を営むおじに引き取られ、少年期を過ごした。楽しみはなんといっても大相撲。ラジオにかじりついて、怪力と猛突っ張りで鳴らす故郷の英雄・千代の山を応援した。新聞、雑誌で報じられる道産子第1号横綱の勇姿にはひとしきり胸をときめかせたものだ。

 中学を卒業したら早く上京して力士になりたかったが、お世話になったお礼奉公の意味で4年間牧場の働き手となって時期を待った。

 19歳になった私は家出し、札幌で半年間のアルバイトをして上京資金を貯めた。すべては千代の山の弟子になりたいがためだった。勝手に九重部屋に入門すると決めていた私は、部屋にまず自分の布団を送っておいて、親戚を頼り上京、42年4月7日、当時独立直後で浅草橋にあった部屋を訪ねた。

 いきなりの入門希望者におかみさんはびっくり。春場所の後始末でまだ大阪にいた親方に連絡を取った。「俺が帰るまで部屋に待たせとけ」ということで、とりあえず寝泊りさせてもらえることに。

 2~3日して帰京した親方は、私の体をざっと見るなり、「力士には向いていない。帰りなさい」とあっさり不合格の判定。だが私も必死だった。「一生懸命やりますから、何とかお願いします」と食い下がる。根負けした親方が、「じゃあ、女房のやっている料亭の板前に」とまで譲歩してくれたのだが、私は「なんとか力士に」となおもやり取りを重ねて居候。その日数は2週間に及んだ。結局は、困り果てたおかみさんが東京の親戚に連絡して、引き取られることになるのだが、憧れの人の人間的魅力に直接触れた、私の長い人生において最も濃密な2週間だった。

 私を送り出すにあたって親方は、「お前はオレと同じ道産子なんだから、どの道に行っても一丁前になれよ」と声を掛けてくれた。

 以来、この言葉を支えに、私は無我夢中で働いた。そして時間こそかかったが、小さいながらも一広告会社を経営し、後援会の片隅にもおいてもらえるようにもなった。

 その途中で、こんなことがあった。東芝に勤め始めて3年ほど経ったころ、私は親方のことがたまらなく懐かしくなって、恐る恐る部屋を訪ねたことがある。「その節は、お陰さまで」と顔を出すと、親方は貧相な若僧のことをちゃんと覚えていてくれたばかりか、車で出掛ける途中だったのに、わざわざ戻って若い衆になんと、「おい、みんな、この人はオレの友達だからな」と紹介してくれたのである。散々迷惑をかけた落第生を、OBどころか友達とまで……どこまで大きな人なんだろう! 一生この人を師と仰いでいきたいと、改めて痛切に思ったのだった。

 私にとって世界中のどんな山よりも高い千代の山の恩。思い出の栞はきりがないが、その温かい人柄と愛情、部屋の師匠としての充実感が、画面からあふれ出している写真を、私の至高の一枚として上げさせていただきたい。

 恩師が亡くなって今年ではや35年(平成24年当時、命日は10月29日)。合掌――。

語り部=善福堂(広告会社)社長 鈴木重一(昭和22年生まれ)
写真:月刊相撲

月刊『相撲』平成24年11月号掲載

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